時は天文5年(1537年)12月26日。信濃国海之口城(長野県南佐久郡南牧村)が攻略され、城主の平賀源心(ひらが げんしん。玄信)が討死しました。後に「甲斐の虎」と恐れられた戦国大名・武田晴信(信玄)が、初陣に立てた大手柄です。
武田ファンなら多くの方が知っているこのエピソード。大抵の方はこれ以上の興味は持たないかも知れません。
「若き晴信が、中ボス的な豪傑を倒したんだね。ふーん」とか何とか。
しかしこの平賀源心に、実は子孫がいたと言ったらどうでしょう。
今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、平賀源心のエピソードと子孫たちの足跡をたどってみたいと思います。
四尺八寸の「ひだり太刀」を振り回す豪傑
●某 玄信
信濃国平賀の城に住し、平賀玄信と號す。勇力人にすぐれ、常に長剣をこのむ。そのおぶるところの刀、左文字にしてその長さ四尺八寸なり。ゆへにときの人玄信がひだり太刀とよぶ。玄信戦場におもむくごとにかならず魁となり、退くときはかならず殿たり。かつ部下の将士に栗一顆(つぶ)をあたへ、帰陣の後戦功なきものの栗をうばひとる。この故に人々たゝかひを励まずといふことなし。後海之口にをいて討死す。武田信玄その武勇を感じ、大門峠に石地蔵を建立しその霊を祀る。又かの左文字の刀は大剛の者ならでは佩べからずとて、常に坐右に置き、勝頼に傳ふ。
※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三 清和源氏(義光流) 大井
平賀源心は生年不詳、大井忠孝の子として誕生。甲斐源氏の鎌倉御家人・小笠原長清の子孫でした。
信濃国平賀城(長野県佐久市)に住んでいたため平賀玄信(源心)と名乗り、大井一族きっての豪傑として活躍します。
愛刀は左文字(さもんじ)、その刃渡りは四尺八寸(約145センチ)という大物を振り回し、人々は「玄信の左太刀(ひだりだち)」と呼んで恐れました。
戦場に出る時は必ず先鋒を務め、引き揚げるときは必ず殿軍を任されたそうで、その武勇は広く知られたことでしょう。
そんな玄信は部下も勇敢で、出陣前に栗を一粒ずつ与え、働きの悪かった者からその栗を奪ったと言います。栗を奪われて恥をかきたくない部下たちも、死に物狂いで戦ったのでした。
かくして数々の戦場で勇名を馳せた玄信ですが、海之口城の合戦で討死してしまいます。晴信の父・武田信虎は見事に撃退したものの、殿軍に残った晴信に奇襲を受けたのです。
若き晴信は玄信の武勇を惜しみ、石地蔵を建立してその英霊を祀りました。
また愛刀の左文字を接収し、滅多な者が用いるべきではないと大切に保管。後に武田の家督を継いだ武田勝頼(諏訪四郎)に伝えたということです。
ちなみに晴信が出家した法号は信玄。
平賀玄信とまったく同じ文字を逆さにしているのは、何かの偶然なのでしょうか。ちょっと気になりました。
平賀玄信の弟・大井貞隆も晴信の魔手に……
大井貞隆 今の呈譜に忠重が男とす。
代々信濃国佐久郡岩村田の城に住す。そのころ同国より兵賦六千騎をいだす。貞隆は千騎の将たり。武田信虎猛威をふるひ、しばしばせめうつといへどもくだらす。信玄がときにいたり、貞隆家臣等にあざむかれて甲府におもむき、信玄のためにとらはれ、某年甲府にをいて死す。法名高臺。
※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三 清和源氏(義光流) 大井
ちなみに平賀玄信には兄弟がおり、その一人である大井貞隆も武田家によって滅ぼされています。
生没年は不詳、大井忠重という別名も伝わっているそうです。信濃国佐久郡の岩村田城(長野県佐久市)に拠って一千騎の軍勢を率いる勢力を誇りました。
ちなみに当時、信濃国全体に幕府より課せられた兵賦(へいぶ。有事に動員する兵役ノルマ)が六千騎と言いますから、よほどの大勢力だったのでしょう。そんな貞隆は武田信虎の猛攻をよく凌ぎましたが、やがて晴信(信玄)が武田家を継ぐと、大井家の家臣たちは次々と調略されてしまいます。「大井家に仕えても先がないぞ……」とか何とか。
かくして知らぬ間に孤立無援となっていた貞隆は、騙されて甲府へ赴き、まんまと捕らわれてしまいました。
なぜそんなあからさまな罠にかかった?……もしかしたら晴信が「和議を申し入れたい」とか何とか言ったのかも知れません。
裏切られたと知っても後の祭り。貞隆は家臣たちの裏切りを怨みながら、甲府で世を去ったということです。
平賀玄信の子孫たち
【大井氏略系図】
……小笠原長清―大井朝光(小笠原⇒中條⇒大井)―大井光長―大井時光―大井光家―大井政光―大井政朝―大井政則―大井政茂―大井政信―大井忠孝―大井玄信―大井政勝―大井政継―大井政成(信玄・勝頼・家康)―大井政吉―大井政景―大井政直―大井政長―大井政有―大井持長―大井政表(まさあきら)―大井政祐……
※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三 清和源氏(義光流) 大井
以上、武田晴信によって非業の死を遂げた平賀玄信兄弟。玄信の曾孫・大井政成の代になって武田家二代(信玄・勝頼)に仕え、武田家滅亡後は徳川家康に仕えました。
更に時代は下り、子孫の一人にかの平賀源内がいると言います。本当でしょうか?
戦国時代、多くの武将たちが戦場に非業の死を遂げていますが、意外とその家名や血脈は存続しているもの。調べてみると楽しいので、また紹介したいと思います!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第二輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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