戦国時代

【スペインの野望と日本征服計画】 織田信長とイエズス会の誤算

もし信長を討った明智光秀が生き延びていれば…。

戦国時代の混乱が長引くことで、九州のキリシタン大名とスペインの同盟が強まっていたかもしれません。

そしてフィリピンのようにキリスト教が広まり、九州が大きく変容していた可能性があります。

今回の記事では、スペインによる新大陸とフィリピンの征服、日本に対するスペインの侵略計画、そして織田信長の登場と本能寺の変がイエズス会に与えた影響について見ていきます。

スペインによる新大陸征服とフィリピン占領

15世紀末、スペインはイベリア半島におけるイスラム勢力との戦い(レコンキスタ)を完成させます。この勝利によってスペインは国内の統一を果たし、新たな領土拡張に乗り出す余裕ができたのです。

スペイン王室はジェノヴァ出身の航海者、クリストファー・コロンブスを支援します。コロンブスは新航路を求めてアジアを目指しましたが、結果的に新大陸(アメリカ大陸)へたどり着きました。

教皇アレクサンデル6世の勅書を根拠に、スペインは新大陸の領有権を主張。現地の先住民を異教徒と見なし、彼らを奴隷化して金銀の採掘や農作物の栽培に従事させました。

アステカ帝国やインカ帝国からは膨大な量の金銀が略奪され、スペインの国庫を潤します。この富を背景として、スペインは新たな征服事業に乗り出していくのです。

織田信長とイエズス会の誤算

画像:フィリピンに到達したフェルディナント・マゼラン public domian

1521年、ポルトガル人航海者マゼランが率いるスペイン艦隊は、フィリピン諸島に到達しました。マゼランはセブ島の首長ラプ・ラプの抵抗によって戦死しますが、スペインは現地の部族対立を利用してフィリピンを支配下に置くことに成功します。

フィリピンの征服において、スペインはカトリック布教を重要な征服手段としました。現地の住民に対し、キリスト教への改宗を強制し、現地の信仰や習慣を弾圧したのです。

改宗しない者には、強制労働や高額な税金が課せられます。その一方で、改宗した者には経済的な優遇措置が与えられ、スペイン人の姓を名乗ることが許可されました。

こうした政策の結果、フィリピンではカトリックが広く普及し、住民の多くがホセやマリアなどのスペイン名を持つようになりました。同時に、スペイン語がフィリピンの公用語となり、現地の言語や文化に大きな影響を与えることになったのです。

このようにスペインは新大陸やフィリピンの征服を通じて、膨大な富と広大な領土を手に入れました。カトリック布教と現地文化の弾圧により、これらの地域の征服に成功したのです。

スペインの日本征服計画とイエズス会の働きかけ

新大陸やフィリピンでの制服に成功したスペイン。次なる征服対象として日本に目を付けました。

しかしながら、当時の日本はすでに鉄砲が普及した軍事大国であり、織田信長のような強力な領主が台頭しつつも、まだ国内は内戦状態で統一されていません。このような状況下で、スペインが日本を占領することは困難だと判断されました。

そこでスペインはイエズス会の宣教師を通じて、間接的に日本への影響力を拡大しようと考えます。イエズス会は、日本の大名たちをカトリックに改宗させ、スペインの味方に付けることを計画します。

改宗した大名たちは、スペインの軍事力や貿易の恩恵を受けられると同時に、国内の内戦においてもスペインの支援を得られるというメリットがありました。

織田信長とイエズス会の誤算

画像 : カトリックに回収した大友宗麟 public domain

イエズス会の働きかけにより、九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らがカトリックに改宗し、「キリシタン大名」と呼ばれるようになります。彼らは、布教や貿易の拠点となる長崎の発展に尽力し、ポルトガル船の寄港地として繁栄させました。

また有馬晴信は、1582年に天正遣欧少年使節を派遣し、ローマ教皇への謁見を実現させるなど、積極的にヨーロッパとの交流を図りました。

こうしたキリシタン大名の活動は、スペインとイエズス会の思惑通り、九州におけるカトリックの布教と、スペインの影響力拡大に大きく寄与することになります。

しかし、その一方で織田信長や豊臣秀吉といった強力な統一勢力の台頭により、スペインの日本征服計画は頓挫せざるを得なくなります。

織田信長の登場と征服計画の頓挫

画像 : 織田信長 publicdomain

戦国時代の群雄割拠の中で、織田信長は卓越した軍事力と政治手腕により、日本統一を実現できる最有力の武将でした。

旧来の仏教勢力を弾圧し、神道や儒教、さらにはキリスト教までも利用しながら、信長は自らの権力を誇示しようとしました。

信長が築いた安土城は、その象徴的な存在です。

城の中心である天主は、キリスト教の聖堂をモデルとし、ルネサンス様式を取り入れた革新的なデザインでした。また城内に摠見寺を建立し、自らを神格化することで、諸大名に対する優位性を示そうとしたのです。

こうした信長の行動は、スペインとイエズス会の思惑とは合致しないものでした。信長はカトリックへの改宗よりも、自身の権力強化を優先していたからです。さらに信長が日本を統一してしまえば、スペインが日本に介入する余地はなくなってしまいます。

イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとの会見で、信長はキリスト教に対する理解を示しつつも、改宗には至りませんでした。信長にとってキリスト教は、南蛮貿易によって鉄砲や富をもたらす存在でしかなかったのです。

このように織田信長の登場は、スペインとイエズス会による日本征服計画の大きな障害となりました。

画像:信長と謁見したヴァリニャーノ public domain

本能寺の変とイエズス会関与の可能性

1582年6月21日、織田信長は明智光秀の謀反により、京都の本能寺で自害に追い込まれました。

イエズス会の宣教師たちは、信長の死を「天罰」と見なしました。イエズス会が「本能寺の変」を喜んだことは明らかでしょう。

本能寺の変に関しては、明智光秀とイエズス会の関与を指摘する説もあります。
光秀の娘・細川ガラシャはキリシタンであり、のちに高山右近らとともに信仰を深めました。光秀自身もキリスト教に理解を示していたとされ、イエズス会との接触があった可能性が指摘されています。

ただし光秀とイエズス会の関与を裏付ける証拠は発見されておらず、あくまで推測の域を出ません。光秀の背景には、信長への恨みや、足利義昭を擁立して室町幕府を再興する野望があったとする説も存在します。

九州が「フィリピン化」した可能性

織田信長の死後、もし明智光秀が生きていれば、戦国時代の混乱はしばらく続いていたでしょう。
当時の九州には大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らのキリシタン大名がおり、彼らはイエズス会と密接な関係を持っていました。

これらのキリシタン大名がスペインとの同盟を強化し、日本におけるカトリックの布教と貿易のさらなる拡大を目指そうとしたことは間違いありません。

その結果として、カトリックが広く浸透した九州が「フィリピン化」した可能性は十分に考えられるでしょう。

参考文献:茂木誠(2018)『世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史』KADOKAWA

 

村上俊樹

村上俊樹

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“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
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