徳川家康には2人の正室、側室は少なくとも17〜20人おり、11男5女をもうけている。
正室は「どうする家康」で有村架純が演じる瀬名姫(築山殿)と、後に秀吉との政略結婚で継室としたあさひ姫の2人というのが通説である。(※継室は他にもいたという説もある)
今回は家康の側室たち、そして未亡人がどれだけいたのかを簡潔に紹介させていただく。
西郡局(※お葉)
西郡局(にしのこおりのつぼね)は、家康の初めての側室であり「どうする家康」では北香那が演じている。「お葉」という名前は史料では確認できないので、おそらくドラマでつけられた名前である。
西郡局の父は、三河国衆・鵜殿長持の次男・鵜殿長忠(うどのながただ)であるが「長忠は家臣の加藤義広の娘を養女とした」という記録もあるので(※蒲郡市誌)、鵜殿家と血は繋がっていなかった可能性は高い。
家系的には、家康の又従姉妹にあたる。
永禄8年(1565年 ※1575年という説も)には、家康の次女である督姫(とくひめ)を産んでいる。
西郡局については詳しくはこちらの記事を参照
家康の側室・お葉(北香那が演じる)は史実ではどんな女性だった? 【どうする家康】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/64549/
小督局(お万の方)
小督局(お万の方)は、元々はなんと正室・築山殿の奥女中である。妻の女中であった小督局に家康が手を出したのである。
生い立ちは不明だが、あまり身分の高い出ではなかったようである。
家康の子供を妊娠するが(後の結城秀康)、築山殿はこれを承認せず浜松城から小督局を追い出している。
こういった経緯もあってか、結城秀康は家康の次男であり優秀な武将だったが疎まれ、後に三男の秀忠が将軍となっている。
「どうする家康」では松井玲奈がキャスティングされており、有村架純 vs 松井玲奈のバトルシーンが予想できる。
西郷局(お愛の方)
西郷局(お愛の方)は、三河国衆・西郷正勝の孫娘で、一説には結婚したものの夫に先立たれて未亡人であったという。
その後、従兄弟の西郷義勝と再婚して1男1女をもうけるが、義勝も討死し、またも未亡人となってしまう。
その後に家康に見初められ側室となり、叔父である西郷清員の養女として仕えたとう。
西郷局は後に2代将軍となる3男・秀忠と、4男・忠吉を産んでいる。
「どうする家康」では、広瀬アリスがユーモラスなキャラで演じるようである。
お竹の方
お竹の方は、旧武田家の家臣・市川昌永の娘とされている。
他にも市川昌忠の妹とする説や、穴山信君、秋山虎康、武田信玄の娘とする説まであり、詳しくは不明である。
家康の三女・振姫(ふりひめ)を産んだとされるが、下山殿が産んだという説もあり、こちらも定かにはなっていない。
下山殿(おつまの方)
下山殿(おつまの方)は、旧武田家の家臣・秋山虎康の娘とされている。
下山殿に関しても諸説あり、同族の穴山信君の養女だったという説、武田信玄の娘だったという説もある。
穴山信君が織田氏に臣従した時に家康の側室となり、5男・信吉を産んだ。
信吉は、家康が武田信玄を崇拝していたことから「武田七郎信義」と命名され、後に「信吉」と改名している。
茶阿局(お茶阿の方)
茶阿局(お茶阿の方)は、元々は庶民の娘である。
現在の静岡県金谷町あたりで鋳物師をやっていた男と結婚して一女をもうけた。しかし金谷の代官が茶阿局に一目惚れしてしまい、なんと夫を殺してしまったのである。
そして茶阿局は、鷹狩に来ていた家康の前に行ってこれを直訴した。そして代官は罰せられ、この件がきっかけで家康の側室となったのである。
つまり茶阿局も未亡人である。
茶阿局は、6男・忠輝、7男・松千代を産んでいる。
茶阿局については詳しくはこちらの記事を参照
庶民から側室になった茶阿局とは?
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/63674/#i
お久の方
お久の方は、北条家の家臣・間宮康俊の娘である。
1590年の秀吉の小田原城攻めで北条氏が敗れ、父の康俊は討ち死。
その後、間宮家は家康に仕え、お久の方は側室となったようである。
伏見城にて家康の4女・松姫を産んだが、その後に松姫はわずか4歳で早世している。
お亀の方
お亀の方は、石清水八幡宮の社家・志水宗清の娘である。
お亀の方は、美濃の斎藤家の家臣・竹腰正時に嫁いで1男(竹腰正信)を産んだが死別。
その後、秀吉の家臣・石川光元の側室となり1男(石川光忠)を産んだが離別。
バツ2の状態で、1594年に家康に見初められ側室となった。つまりお亀の方も元は未亡人である。
家康との間に8男・仙千代を産んだが、仙千代は6歳で早世している。
蔭山殿
蔭山殿は上総勝浦城主・正木頼忠の娘であり、血筋は三浦義村の娘・矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。
家康との間に10男・頼宣、11男・頼房を産んでいる。
頼宣は紀州徳川家の家祖であり、頼房は水戸徳川家の家祖である。
2人に「頼」の字が与えられたのは、蔭山殿が源頼朝に由来のある家柄だったからとも考えられる。
お梶の方
お梶の方は、北条家の家臣・太田康資の娘である。
極めて聡明な女性として知られ、早くから家康に仕えており、一時は松平正綱の元へ嫁がされたが、不満だったのかわずか一ヶ月で家康の元に戻ったという。
家康最後の子である五女・市姫を産んだが、4歳で早世してしまう。
不憫に思った家康はお梶の方を、蔭山殿の子・頼房、 および結城秀康の次男・松平忠昌の養母とした。
ちなみにお梶の方、蔭山殿、お久の方は遠縁にあたり、三家とも関東の名家である。
阿茶局
阿茶局は、家康から最も信頼されていた女性としても知られている。
阿茶局は、甲斐国(山梨県)武田氏から今川氏家臣となった飯田直政の娘である。
同じ今川家臣・神尾忠直に嫁いだが、23歳で夫と死に分かれた。
息子2人が幼いまま取り残された状況で、25歳で家康の側室となる。
つまり阿茶局も未亡人である。
阿茶局は、才色兼備な上に馬術や武術に長けており、戦場にも若武者姿で付き従ったという。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも同行したが、身ごもっていた阿茶局は流産してしまい、子供を産めない体となる。
そして関ケ原の戦い以後、阿茶局は「外交交渉」という役割を担い、大坂の陣では淀殿相手に交渉している。
お牟須の方
お牟須(むす)の方は出自は不明で、初めは武田家の旧臣である三井弥一郎の正室だったとされている。
弥一郎との間に1男(三井吉正)をもうけている。
つまりお牟須の方も未亡人である。
しかし夫の弥一郎が小牧・長久手の戦いで討ち死し、その後、まだ幼い吉正を連れて大奥奉公に出る。
そこで家康に見初められて側室となり、側室の中でも家康お気に入りの「三人衆」として扱われたという。
他の側室たち
あまりに長くなってしまうので、他の側室たちは史料が少ないこともあり、一覧で紹介する。
お仙の方 武田家家臣・宮崎泰景の娘
お六の方 今川家臣・黒田直陳の娘
お夏の方 北畠家臣・長谷川藤直の娘
お梅の方 豊臣秀吉の従兄弟・青木一矩の娘
信寿院 出自不明
なぜ未亡人が多かったのか?
今回紹介した側室は17人であり、その内で未亡人は記録があるだけで5人(西郷局、茶阿局、お亀の方、阿茶局、お牟須の方)である。
ただし、家康は積極的に未亡人と結婚していたことは間違いないが、これは性癖などではなく安全性を重視した選択だったようである。
当時は梅毒など性病で亡くなる武将も多く(加藤清正や浅野幸長)、医療知識が乏しい時代において、家康は「子供を生んだ経験のある女性なら安全かつ間違いない」と考えていたようである。
結果的には、この選択は正しかったと言えそうだ。
参考文献 : 徳川家臣団の系図
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