本多忠勝と本多正信
徳川家康の家臣団の中でも、本多忠勝と本多正信は一際目立つ武将である。
NHKドラマ「どうする家康」においても、山田裕貴氏演じる本多忠勝と、松山ケンイチ氏演ずる本多正信は、非常に個性的なキャラクターとして演出されている。
武の本多忠勝と、知の本多正信。
相反する性質の2人であるが、気になるのは同じ「本多氏」であるのに、どうもあまり仲が良くなさそうなことである。
それどころか本多正信は、同じ本多一族からあからさまに嫌われている。同じ本多姓でありながらまるで別族かのような扱いである。
この別族感はドラマの演出だけでなく、史実的な目線から見ても同様である。
本多忠勝と本多正信は血の繋がった親戚なのか? それともたまたま同じ「本多姓」なだけで全く関係のない別族なのか?
今回は2人の関係性について紐解いていきたい。
先祖は同じだった
まずは本多家の起源について追っていこう。
江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』によると、本多家は藤原道長の叔父・藤原兼通の子孫で11代後の助秀が豊後国本多に移り住み、「本多」を称したのが始まりとされている。
そして助秀の子・助定は足利尊氏に仕え、武功により尾張国横根郷(愛知県大府市横根町)と粟飯原の二郷を与えられ、室町幕府の奉公衆を務めた。
その子孫たちが三河に拠点を変え、その後、松平家に仕えるようになったと推測されている。
本多家の流れ
本多家には大きく5つの家の流れがある。それぞれの家の代表的な武将を含めて解説しよう。
平八郎家(洞村)※本多忠勝彦八郎家(伊奈郷)※本多忠次作左衛門家(大平村)※本多重次彦三郎家(土井村)※本多広孝弥八郎家(西城村)※本多正信
わかりやすく本多忠勝を基準とすると、忠勝より7代も前の定通、定正兄弟の頃に枝分かれしており、その後も次々に分家している。
松平家に仕えた時期も家ごとにバラバラであり、最も古くから松平家に仕えたのは、2代目・松平泰親からの彦八郎家(伊奈郷)、次いで5代目・松平長親からの彦三郎家(土井村)となっている。(ただし彦八郎家は7代目・松平清康からという説もある)
他の家は家康の祖父である7代目・松平清康から仕えたとされている。
彦八郎家と彦三郎家は、本多家の中では抜きん出て所領や兵力があったという。
そして一見すると平八郎家が宗家のようにも見えるが、どこが宗家なのかは不明となっている。
本多家は家臣団の中では身分は高くなかった
本多家は一般的には家康の家臣団の中でも最古参にあたる「安城譜代」である。(※家康の祖父の代までに仕えた譜代家臣は三御譜代とされ、古い順に安城譜代・山中譜代・岡崎譜代となる)
しかし本多家自体はさほど家格は高くなく、家老級である石川家や水野家とは婚姻関係すら当時はなかった。同じ家臣団でもそれほどに身分差があったのだ。
後に徳川四天王の1人として名を馳せる本多忠勝や、徳川家の軍師的存在となる本多正信は、当初は家臣団の中でも格は低く指揮官クラスですらなかった。
本多忠勝が初めて指揮官クラスとなったのは、1565~1567年頃に家康が行なった「三備」という軍政改革からである。
つまり本多忠勝や本多正信は、家康が勢力を拡大していく過程において、実力で成り上がった武将なのである。
2人の関係をまとめると
話がやや脱線したが、本多忠勝と本多正信の関係をまとめると
「同じ一族ではあるが、ほぼ他人」
ということになる。
先祖は同じではあるが、忠勝より7代も前の「定通、定正兄弟」から枝分かれしており、正信はそこからさらに分家した弥八郎家の流れである。
血の繋がりもほぼない、遠い遠いはるか遠い親戚といったところであろうか。
ただ2人に共通しているのは、飛び抜けた才能を持ち、実力で成り上がっていったという点である。
家康にとっては1〜2を争うほどに頼もしい2人だったことだろう。
参考文献 : 「寛政重修諸家譜」 「徳川家臣団の系図」
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