天正壬午の乱とは?
1582年(天正10年)6月、甲斐の武田家を滅ぼした織田信長にもはや敵は存在せず、誰もが織田家の天下を予想していたところ、信長は明智光秀の謀反によりまさかの横死。天下は再び争乱の様相を表し始めます。
一方、織田家によって支配下に入ったばかりの武田家旧領の甲斐・信濃・上野の地は混乱の極みに陥り空白地帯と化してしまいます。
この三カ国を巡り、徳川家・北条家・上杉家の三大名は激しく争奪戦を繰り広げることとなり、この一連の争乱を「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」と称します。
今回は織田信長の盟友であった徳川家康が雌伏の時を経て、如何にして五ヶ国を治める大大名へと躍進したかに迫りたいと思います。
本能寺の変と各勢力の動向
1582年(天正10年)5月21日、徳川家康は織田信長より駿河一国を与えられたため、その拝礼のため安土城を訪れ、信長より大接待を受けます。その後、堺の町にて物見見物を行っていた家康ら一行でしたが、6月2日未明に本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれたことを聞きつけます。
一時は自害も考えた家康でしたが、本多忠勝ら供回りの説得を受けて畿内からの脱出を敢行。伊賀の出身である服部半蔵の進言を受け入れ伊賀・甲賀の地を通る「伊賀越え」を行い、なんとか伊勢までたどり着くと、そこから海路で自国内の三河岡崎城に見事帰還に成功します。
一方、織田信長が横死したとの情報が入った旧武田領の甲斐・信濃・上野の三ヵ国は混乱に陥ります。織田家が武田領を支配して僅か3カ月ほどしか経っていなかったため、“信長死す”の報を聞いた武田遺臣と領民らが各地で一揆を引き起こし始めたのです。
また、関東の北条、越後の上杉も信長の死に乗じて織田領に侵攻を開始します。
6月16日、小田原城の北条氏政・氏直親子は総勢5万6千の軍勢で滝川一益が守る上野・武蔵方面に進撃。このとき滝川一益は必死に奮戦しますが、神流川(かんながわ)の戦いにて敗北し撤退してしまいます。
これを見て一益配下の森長可と毛利長頼は所領の信濃を放棄し畿内方面へと退却。また、甲斐を守る河尻秀隆は一揆軍の対応に追われて領内に踏み止まざるを得なくなります。
越後の上杉景勝は柴田勝家率いる北陸方面軍によって危機的状況に陥っていましたが、本能寺の変によって攻勢に打ってで、北信濃の川中島に侵攻します。
ちなみにこの時、真田昌幸が上杉景勝に臣従しています。
家康による甲斐・信濃侵攻
6月4日、岡崎城への帰還に成功した徳川家康は甲斐・信濃の国人衆に調略を行うと共に明智光秀討伐の準備に取り掛かります。
また6月10日に家康は甲斐で孤立している河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しますが、家康が甲斐を簒奪しようとしていると疑心暗鬼に陥った秀隆は使者を殺害し、そのまま甲斐に留まりますが、後に一揆衆の襲撃を受け殺害されてしまいます。
6月14日、出陣の準備を整えた家康は岡崎城を出発し、尾張の鳴海に着陣しますが、翌日に急報が家康に届けられます。なんと、明智光秀が京都山﨑の地にて羽柴秀吉率いる軍勢に大敗し、討ち死にしたというのです。本能寺の変からわずか13日後のことです。
あまりの出来事であったため誤報ではないのか、と疑う家康と家臣一同らでしたが、数日後に秀吉本人から書状が送られてきたため、事実であると認識した家康らは鳴海を引き払い、浜松城へと一旦帰還しました。
光秀討伐の必要がなくなった徳川勢は思案の末、未だ騒乱が続く甲斐・信濃の平定に向かうことを決定。酒井忠次を信濃方面に向かわせます。続いて大久保忠世を先発として甲斐に出陣させると、7月2日に家康自身も兵8000を率いて甲斐の平定に乗り出します。
このとき、事前に行っていた調略が功を成し、甲斐の武田家遺臣らが家康に味方したため家康は容易に甲斐に侵攻し、出陣から僅か1週間足らずで甲府を占領することに成功します。
また、羽柴秀吉は「信州・甲州・上州を敵方に渡すべきではない」と家康に書状を送っており、徳川軍の旧武田領への侵攻を容認しました。
若神子対陣と黒駒合戦
徳川家康が甲斐の平定に取り掛かる一方、滝川一益を追い払った北条氏直軍はほぼ上野全域を掌握していました。勢いに乗った北条軍は碓氷峠(うすいとうげ)を超えてそのまま信濃に進撃し、真田昌幸や木曽義昌らを臣従させると、信濃東部と中部を支配下に置きます。
このとき家康に協力していた武田家旧臣の依田信蕃(よだのぶしげ)は小諸城を抑えていましたが、北条の大軍の前に撤退せざるを得ず、居城の春日城(蘆田小屋?)に移り、ゲリラ戦を展開し始めます。
一方で、信濃方面に侵攻した徳川勢の酒井忠次らの軍勢は諏訪郡まで進撃するも、高島城の諏訪頼重の調略に失敗してしまい、信濃攻略に手こずり始めます。
かたや信濃制覇を目指す北条軍は上杉家が治める海津城を占領すべく、千曲川(ちくまがわ)を挟んで上杉軍に決戦を挑もうとします。しかし、徳川勢が甲斐・信濃に進出していることを知ると即座に上杉家と和睦し、軍を甲斐に向けて進軍させます。
8月初旬。北条氏直率いる軍勢は甲斐に侵入し、若神子城(わかみこじょう)を占拠。これを見た甲府の徳川家康は新府城へと入城し、北条軍に備えます。こうして若神子において徳川と北条の全面対決の様相が呈されます。
新府に依る徳川軍8000に対し、北条軍は4万近くの兵を率いており数の上では圧倒的に優位に立っていました。しかし、固く守りに徹する徳川軍と依田信蕃らのゲリラ軍の対応に手を焼き、北条軍は各地で徳川軍に敗退してしまいます。
この状態を打開すべく北条氏直は一族の北条氏忠に1万の兵を率いさせ、家康の背後を強襲しようと計画。北条氏忠は甲府の南に位置する御坂峠を越えて北条氏が新たに築城した御坂城に入城すると部隊を二手に分け、甲府に向け進軍を続けます。
北条の別動隊が甲府に迫っていると知った徳川家康は危機に陥りますが、北条軍本体と対峙しているため新府を離れる訳にいきません。そこで家康は鳥居元忠を大将とし、内藤信成や水野勝成ら猛将を中心とした兵士2000を編成し、北条氏忠の迎撃に当たらせます。
一方、北条氏忠の軍は行軍途中の村々を略奪しながら進軍するなどして完全に油断仕切っていました。そのような状態の中8月12日、突如として徳川軍2000の決死隊が出現したため、氏忠率いる軍は大混乱に陥り総崩れとなってしまいます。
さらに鳥居元忠は追撃を続け北条軍の退路を遮断し、氏忠の別部隊にも猛攻を仕掛けたため北条氏忠の軍は潰走。氏忠ら北条軍は散りじりとなって各地へと逃走してしまいます。
この戦いは「黒駒の合戦」と呼ばれ、徳川軍の甲斐での優位を決定的にすると共に、徳川軍が精強であることを改めて各国に知らしめることとなります。
五ヶ国の大名へ
黒駒の合戦に勝利した新府の家康の下に北条の敗残兵の首級が多く届けられました。これを見た家康はこの首級を対峙する北条氏直の軍に見せつけるよう並べることを命じます。
自軍の兵士らの首級が晒されていることを知った北条氏直は驚き、別動隊が敗れたことを悟ります。また、これを見た氏直の軍に大きな動揺が走り、士気は大きく低下してしまいます。
氏直は続いて北条氏邦に甲斐を攻めるよう命じますが、8月22日に信濃の木曽義昌が徳川軍に寝返り、信濃の情勢は徳川方に傾き始めます。さらに氏直が着陣する若神子城の後方に位置する大豆生田(まみょうだ)砦が徳川軍の奇襲によって陥落したため、北条軍は兵糧の不足に悩まされ始めます。
9月になると北条軍の情勢はさらに悪化の一途を辿り始めます。若神子城の後方の砦は次々と徳川軍に奪取され、小田原城より駿河に向かった別部隊もあえなく撃退されてしまいます。さらに、ゲリラ活動を継続していた依田信蕃の調略により真田昌幸が北条より離反する動きを見せ始めていたのです。
9月の終わりに差し掛かるころには、北条と敵対関係にあった北関東の佐竹、結城、宇都宮といった大名らが北条領に攻め込み始め、当初は優勢であった北条は逆に包囲される形に追い込まれます。
10月、沼田城の真田昌幸は北条と決別を表明すると依田信蕃と共に佐久郡の諸城と碓氷峠を占領し、北条氏直の補給路を完全に遮断します。この真田の裏切りを知った氏直は、もはや戦線を維持することは不可能であると考え、徳川との和睦を思案します。
こうして10月28日、北条氏直は板部岡江雪斎を使者として遣わし家康に和睦を求めました。また家康も織田信雄に仲介を依頼し、北条との間に講和を結ぶことを承諾します。この際、両家の講和の条約として以下の内容が双方の間に認められました。
・甲斐・信濃の二カ国は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、以後、相互に干渉しない
・北条氏直に家康の娘である督姫を娶らせ、婚姻関係を結ぶこと
和睦後、北条軍は甲斐を去り小田原城へと撤退しました。ここに約80日間続いた徳川と北条による若神子対陣は終息し、天正壬午の乱と呼ばれた騒乱も終わりを告げます。
また、家康は引き続き甲斐・信濃の在地勢力の併呑に尽力し、年内中に上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を治めることに成功したため、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を治める大大名へと大きく成長を遂げます。
その後
この天正壬午の乱を経て徳川家康は5カ国132万石の大名へと飛躍を遂げると共に、強力な旧武田家臣団を傘下へと加えることとなります。
その後、家康は中央を席巻した豊臣秀吉と対決に挑み、小牧・長久手の地にて互角の戦いを見せることとなりますが、これが可能だったのは、やはりこの天正壬午の乱にて旧武田領と家臣を傘下に加えたことが大きいように思えます。
また、この際取り立てられた多くの旧武田家臣らは徳川幕府成立後も幕臣として活躍しており、徳川幕府に大きな影響を与えた出来事であることは否定できません。
徳川家康のその後に大きな影響を与えた、天正壬午の乱についてご紹介いたしました。
今川貞世さんが得意とする戦い方だね。