隆慶一郎『影武者徳川家康』という作品をご存知でしょうか。
時は慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いを前に、徳川家康が刺客によって暗殺されてしまいます。
いきなりの大ピンチ!その場には家康の影武者だった世良田二郎三郎元信、小姓の門奈助左衛門、そして口取(主君の馬を曳く馬夫)の”すり“しかいません。
まだ誰も家康の死を知らない中、駆けつけた本多忠勝も加わり、天下分け目の大戦さに臨むのでした。
……という幕開け。聞いただけでも面白そうですね。原哲夫がコミック化しているため、こちらもおすすめです。
さて、主人公の世良田二郎三郎元信と行動を共にする”すり“。この人物は創作だと思っていました。
「ネーミングの由来はともかく、下っ端の名前は適宜つけたのであろうな」
しかし江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』を読んでみると、この”すり”の存在が確認できます。
架空の人物とばかり思っていたのに……見つけた瞬間、思わず声が出てしまうほど驚きました。
果たして、どんな人物だったのでしょうか。さっそく読んでいきましょう。
え、こんなキャラだっけ?
「おい、まだ始まらんのか?」
濃い霧の中、家康は苛立ちを隠せません。
先ほど銃声が聞こえたと思ったのですが、程なくそれも止んでしまったのです。
果たして前線では何が起こっているのか……報告も来ないので、何とも判断しかねていました。
そんな中、家康に声をかけたのが口取の老人”すり”でした。
「殿よ。戦は既に始まっていると見える。早くご出馬なされよ」
下っ端のくせに、随分と偉そうな口ぶりです。家康は咎めるように言いました。
「知った口を利きおるわ。そなた、何を根拠にそう申すのか」
確かに、”すり”はずっと家康に付き従っているため、個別の情報源は持っていないはずです。
しかし”すり”には確信がありました。
「聞こえなんだか。先ほどまで向こうから銃声がしとったじゃろうが。それが止んだと言うことは、今ごろ槍合戦が始まったんだわ。早く御馬を出して兵を進め、敵を押し揉んでやりなされ」
当たり前のように”すり”は言います。
身分上、兵を率いた経験など一度もなかったはずです。
しかし年の功とはよく言ったもので、数々の戦さ場をくぐり抜けたため、戦さの呼吸は習わずとも覚えてしまったようでした。
まさに門前の小僧何とやら……家康は全軍に鬨(とき)の声を上げるよう命じます。
「鋭(えい)、鋭!」
「「「応(おう)!」」」
さぁ、いよいよ旗本三万騎が山のように動き出す時が来ました。将兵の誰もが武者震いに血肉を沸き立たせたことでしょう。
そしてそれは、家康も例外ではなかったようです。
「はぁっ!」
家康はいきなり鞭を入れて、馬を走らせました。
「殿、お待ちを!」
近臣たちも慌てて駆け出し、息を切らせながらようやく追いつきます。
「……殿の御馬は、まことに速うございますなぁ……」
皆が口々に褒めているのかぼやいているのか。そんな中、すり一人は平然と毒づきました。
「何言うとるンじゃ。こんなもん、糞蟹(クソガニ)の這う方がよっぽど速いわい」
言いながら、息ひとつも切らせていません。一体どんな健脚なのか……別にそうでもありません。
と言うのも、すりはずっと馬の口を取ってぶら下がっていたから。馬にしてみれば、いい迷惑ですね。
ちなみにクソガニとは赤手蟹(アカテガニ)の別名。湿ったところで死骸などを漁ることから、こんな呼び名がついたのでした。
「まったく。大将が血気に逸るようでは、勝てる戦さも勝てんわい。しっかりせぇ」
まったくはこっちのセリフだ……しかし家康は苦笑い。老勇者の毒舌を、微笑ましく聞き流したということです。
終わりに
……年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戦はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鉄砲の聞えしが。今やみつればさだめて鎗合になりしならむと申す。さらば鬨の声をあげよと命ぜらるれば。いかにも恰好の時節なれと申す。その折御身をもたげいさゝか飛せられ。御軽捷の様を近臣にしめし給へば。いづれもその御挙動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと悪言はくを。とがめしも給はでほほゑませ給ひておはせしとぞ。……
※『東照宮御実紀附録』巻十「家康想信康」
※かなり意訳していますが、よかったら読み比べてみて下さい。
以上、徳川家康にそば近く仕えた口取”すり”のエピソードを紹介しました。
短い間に、結構強烈なキャラを印象づけていましたね。
『影武者徳川家康』の好々爺ぶりとはイメージが大違いで驚きました。
徳川陣営では、こんな下っ端までもが戦さの何たるかを心得ていたようです。そりゃ強い訳だ……と納得しきり。
この”すり”について、また新たなエピソードを見つけたら、是非とも紹介したいですね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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