独眼竜の二つ名で知られる伊達政宗。
あと10年早く生まれていれば、天下を獲れたかも知れないとも言われた英雄ですが、その子孫にも破天荒な人物がいました。
彼の名は、伊達順之助(だて じゅんのすけ)。
明治から昭和にかけて生きた大陸浪人の一人です。
今回は中国大陸で大暴れした挙句、非業の末路をたどった伊達順之助について紹介したいと思います。
17歳で殺人犯に

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伊達順之助は明治25年(1892年)1月6日、仙台藩知事を勤めていた大名華族・伊達宗敦(むねあつ)の六男として誕生しました。
少年時代から素行が悪かったらしく、順之助は麻布小学校を卒業後、慶應義塾中等部・攻玉社中学・学習院・幼年学校・立教中学など退学や放校を繰り返します。
慶應義塾の在学中は出刃包丁を隠し持って登校したと言い、立教中学時代の明治42年(1909年)5月13日には対立する不良を射殺する事件を起こしました。
東京地裁で懲役12年の判決が出たものの、控訴審で懲役6年となります。
更に上告して正当防衛が認められ、執行猶予つきで釈放されたのです。
よかったよかった。これからは真面目に……と更生するような人物ではありませんでした。
紆余曲折を経て満州馬賊に

画像:伊達順之助。国境警備隊長時代に撮影 Public Domain
大正3年(1914年)に海城中学校を何とか?卒業した順之助は、少年時代から強い関心を持っていた大陸情勢に関与すべく、義勇軍「満蒙決死団(満蒙決戦団)」を組織します。
ここには朝日平吾(あさひ へいご)や、小磯国昭(こいそ くにあき)らの壮士が参加していました。
やがて甘粕正彦(あまかす まさひこ)の伝手で満州の奉天に渡った順之助は、大正5年(1916年)頃の張作霖爆殺計画や、大正8年(1919年)の山縣有朋暗殺計画に関連して、その名が取り沙汰されるようになります。
また大正5年(1916年)の第二次満蒙独立運動にも参加し、大陸浪人として存在感を強めていったのでした。
独立運動の失敗後は山東自治聯軍に参加し、大正10年(1921年)になると朝鮮総督の斉藤実(さいとう まこと)を頼り、朝支(朝鮮・中国)国境の警備隊長を勤めます。
しかし任務に飽きてしまったのか、警備隊長を辞職した順之助は、再び満州に入りました。
大正12年(1923年)には武装朝鮮人のアジトを襲撃。武器弾薬を奪ってならず者たちを掻き集め、満州馬賊として活動するようになったと言います。
順之助が馬賊になったのは、恐らく社会秩序の枠に収まらなかったから……なるべくしてなったのかもしれません。
中国人「張宗援」に

画像:「狗肉将軍」と恐れられた張宗昌 Public Domain
馬賊となった時期の順之助について、その動静は詳しく分かっていません。
満州狭しと駆け回る日々の中で、張作霖の部下である張宗昌(そうしょう)と意気投合。
昭和4年(1929年)には義兄弟の盃を交わしました。そして自身の名を張宗援(ちょう そうえん)と称します。
宗の字は張宗昌から、あるいは遠祖・伊達政宗からとったのでしょうか。今回は便宜上、順之助で統一します。
やがて張宗昌が世を去った後もその遺志を受け継ぎ、満州国が建国されると関東軍(日本陸軍)の指揮下で特務活動に当たり、その実績から将官相当の待遇を受けるようになったとされます。
昭和12年(1937年)頃には、事実上数万人規模とも言われる武装勢力を率いて、抗日勢力の掃討に投入されました。
山東省に遠征した順之助の部隊は、昭和14年(1939年)、抗日勢力の多い掖県(現在の山東省萊州市)一帯で大規模な掃討作戦に投入されました。
その過程で多数の住民が殺害され、後に「掖城事件(掖城大屠殺)」と呼ばれる深刻な惨状を招いたとされています。
この怨みによってか、抗日勢力の抵抗はますます厳しくなり、順之助らは苦戦を強いられるようになったと言います。
悪運尽きて銃殺刑に
死闘の末に敗走を重ねた順之助の部隊は、次第に規模が縮小していきます。
寝返りや脱走兵が相次いだのでしょう。
最終的には関東軍の命で解散させられ、順之助は海軍顧問という立場で山東省青島市に残って特務活動を継続しました。
やがて昭和20年(1945年)に日本が敗戦すると満州国も解体され、順之助は現地警察に逮捕されます。
身柄を上海に移されて形ばかりの裁判を受け、日本人戦犯として銃殺刑に処されました。
時に昭和23年(1948年)9月9日、享年57。
終わりに

画像:伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃)public domain
今回は不良少年から満州馬賊となり、最期は戦犯として処刑された伊達順之助について、その生涯をたどってきました。
もし戦国乱世であれば、風雲児として成功を収めたのかも知れません。
伊達政宗は草葉の陰から子孫の姿を見て、どんな思いを抱いたのでしょうか。
順之助の破天荒な生き方は、決してマネ出来ないしすべきでもありませんが、どこか惹かれてしまう一面も感じられます。
当時は他にも多くの大陸浪人が活躍していたので、また改めて紹介いたします。
※参考文献:
・戸部新十郎『海外雄飛の群像』大陸書房、1970年5月
・渡辺龍策『馬賊 日中戦争史の側面』中公新書、1964年4月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
























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