20世紀初頭、ヨーロッパのカーレースを席巻したイギリスのスポーツカー「ベントレー 3リッター」に乗り、ヨーロッパを駆け巡った男がいた。
日本人で最初にジーンズを履いた男とも言われ、晩年には三宅一生のモデルにもなった人物である。
完璧な英語を話す、身長185cmのダンディな日本人「白洲次郎(しらすじろう)」。
端正な顔立ちでインテリ肌の男と思われがちだが、彼はそのイメージとはかけ離れた激しい仕事をこなすことになる。戦後日本が占領軍、GHQの支配下に置かれることになり、困難な要求を突きつけられたとき、真っ向から戦い「従順ならざる唯一の日本人」とまでいわせた人物。
戦後復興に命を掛けた男の生涯を追ってみよう。
マッカーサーを叱り付ける男
※白洲次郎
1945年(昭和20年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗北し、終戦を迎えた。
その十五日後、神奈川県厚木飛行場に敗戦国日本の占領政策を指揮する人物が降り立った。連合軍総司令部GHQ最高司令官「ダグラス・マッカーサー」である。マッカーサーは、日本の非武装化、民主化を実現させるために強硬な手段を取り、敗戦国であった日本側は平身低頭するしかない状況であった。
同年12月、GHQと政府各省庁との連絡役として設けられた「終戦連絡中欧事務局」に一人の風変わりな男が配属される。白洲次郎、当時43歳。
クリスマスの日、白洲は昭和天皇からの贈り物をマッカーサーに届けるためGHQを訪ねた。しかし、マッカーサーは「その辺にでも置いてくれ」とぞんざいな態度を示す。これに激怒した白洲は「天皇からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と言い放ち、その剣幕にマッカーサーも謝ったという。
最高権力者に対してさえ物怖じしない男、それが白洲次郎であった。
吉田茂との出会い
明治35年、白洲は兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた。
子供の頃から喧嘩っ早く、型破りな少年であったという。19歳のとき、イギリスに渡りケンブリッジ大学に入学。7年の留学期間中に貴族階級の友人たちと交流を深めた。そこで身につけたのが、英国紳士のたしなみである。
昭和4年、帰国した白洲は、伯爵・樺山家の令嬢「正子」と結婚、その後は貿易業に携わり、海外を飛び回る生活を送るようになった。そして、白洲は正子の実家である樺山家と親しかった駐英大使・吉田茂と出会うことになる。
戦前、吉田は反戦思想の持ち主とされ警戒されていたが、歯に衣着せずに正論を吐く白洲に共感を持ち、二人の親密な関係を築いていった。
【※吉田茂。白洲がイギリスに赴いた際には、吉田が大使を務める大使館を定宿にするほどの仲であった】
しかし、太平洋戦争が始まると食糧不足を予測した白洲は、農業をするために正子と共に隠棲するようになる。その家は相模と武蔵の国境にあることと、「無愛想」にかけて「武相荘(ぶあいそう)」と名付けられ、今も東京都町田市に残されている。
GHQの憲法草案
しかし、時代は白洲を放ってはおかなかった。
戦後、外務大臣に就任した吉田茂は、GHQと日本政府の調整を任されるという立場におかれる。
その時、吉田の片腕として抜擢されたのが白洲次郎であった。
【※ダグラス・マッカーサー】
マッカーサーは、明治憲法を基にした新憲法の作成を急ぎ、日本政府もその草案を作成し始める。
昭和21年2月3日には、CHQに日本政府が憲法改正案を説明する会合が開かれたが、そこには吉田茂外務大臣、松本烝治(まつもとじょうじ)国務大臣と並び、白洲の姿もあった。GHQからは日本の民主化を進める最高幹部二人が出席、政府側の話を遮るないなや、GHQが作成した憲法案を提示したのである。
そこには天皇を象徴として扱うなど、日本の想像を超えた大きな変更ばかりがも盛り込まれていた。そのときのGHQ側の記録には「白洲氏は何か異物にでも腰を下ろしたかのように思わず姿勢を硬くした」と記されている。さすがの白洲も言葉を飲み込むしかなかったのだ。
屈辱の憲法草案から経済の建て直しへ
後日、白洲は、そのままGHQ案を採用することは出来ないと抵抗を試みるが、GHQが折れるはずもなく、3月4日にはGHQ案に沿うように書き直した草案を松本国務大臣とともに提出する。
が、それを見たGHQ幹部はにべもなく翌朝までに書き直すように命じたてきた。
松本は憤慨し、病気を理由にこの仕事を投げ出したため、白洲が中心となってわずか4人のスタッフで憲法草案を書き直すこととなる。徹夜での作業が終わり、なんとか草案を完成させたが、白洲の心中では「今に見ていろ」という悔しさでいっぱいであった。
5月、吉田茂は内閣総理大臣に就任、GHQからは日本の経済の安定と食糧難の解決を求められるようになり、白洲は新設された「経済安定本部」のナンバー2である次長に就任。憲法草案ではGHQの高圧的な姿勢に悔し涙を流した白洲は、経済を立て直すことで、アメリカを見返し、日本人の尊厳を取り戻す機会に出会うこととなる。
そのときの気持ちを白洲は「我々の世代に戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な建て直しを要求しているのだと思う」と残している。
風の男
だが、GHQは物資の供給も政府が統制する「統制経済」政策を求めてきた。食料などの物資に公定価格を定めよ、というものである。しかし、戦後の混乱期に統制経済など通用するわけもなく、国民の不満を背負うかのように、吉田内閣は昭和22年4月の解散総選挙で社会党に負け、内閣を辞職した。
これを機に白洲も一度は野に下ったが、その後の内閣は経済政策の失敗やスキャンダルにまみれ、ここで再び世論が吉田茂に目を向けることとなる。それを快く思わないGHQの一部の勢力は、吉田の首相就任を阻止しようと介入してきたのだ。
この「内政干渉」に猛反発したのが、白洲である。彼はGHQに根回しをし、最終的にはマッカーサーにまで吉田の首相就任を認めさせた。それに伴い、白洲も政治の世界に復帰したが、彼を待っていたのは自由貿易が行えず、一向に経済が安定しない統制経済の実状であった。これではいつまでたっても、日本は経済的に自立できない。
昭和24年、アメリカが派遣した経済顧問「ジョセフ・ドッジ」が来日。ドッジは統制経済からの脱却こそ、日本が経済的に成長できる道であると表明した。これこそ、白洲の待ち望んでいた言葉である。
これを追い風に白洲は「通商産業省」を設立、輸出産業の育成を図るため、数々の産業政策を実施していった。その結果、日本の産業と経済は復興を果たし、後の高度経済成長の原動力にもなったのであった。
だが、白洲本人は、通商産業省の設立を見届けると、政治の世界からきっぱりと姿を消している。いつしか白洲は「風の男」と呼ばれるようになった。
最後に
戦後復興も実際にはGHQの監督下で行わねばならない屈辱の時代。それをバネにして日本経済の復興を成し遂げた白洲の胸中には、敗戦で失われた日本国民のプライドが残っていたのである。
そして、昭和26年8月31日、サンフランシスコ講和会議に吉田率いる全権団が出発。そのなかに、吉田に請われて参加した一人の民間人の姿もあった。特別顧問として随行した白洲次郎である。しかも、外務省が用意した講和条約の受諾演説原稿に目を通した白洲は激怒した。それはGHQの占領政策に対する美辞麗句が英語で書かれていたのだ。
講和とは、アメリカと同じ立場で臨むものではないか!白洲の一喝により、原稿は急遽、内容と共に日本語で書き直され、9月7日の演説では堂々とした日本語で読み上げられたのであった。
敗戦後の白洲の言葉が、彼の生き様を物語っている。
「日本は戦争に負けたのであって、アメリカの奴隷になったわけではない」
白洲次郎、まさに誰にも縛られない男であった。
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