人物(作家)

柳原白蓮 ~大正三大美人と呼ばれた歌人「センセーショナルな駆け落ち 白蓮事件」

柳原白蓮

柳原白蓮(1885~1967)は、大正から明治にかけて活躍した歌人である。

柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)は、本名を宮崎燁子(あきこ)といい、伯爵を父に持ち、大正天皇の生母である柳原愛子の姪にあたるという、由緒正しき家系の女性である。

波乱万丈な思春期を過ごし、炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門と結婚したあとは”筑紫の女王”と呼ばれた彼女は、のちにセンセーショナルな”白蓮事件”を引き起こす。

この記事では、波乱万丈な人生を過ごした大正三大美人のひとり・柳原白蓮について、彼女の生涯を中心に詳しく調べてみた。

不幸な結婚

彼女の生まれは複雑なものだった。

1885年、東京に生まれた彼女は、父である柳原前光がその誕生の報せを鹿鳴館で聞いたことから、「シャンデリアの光」を連想させる“燁子”という名前をつけられた。

燁子の生母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓になっていた没落士族の娘だった。

そのため、生母の元では育てられず、生後7日目にして柳原家に引き取られた。

燁子の最初の結婚は、1900年。
わずか15歳だった燁子は、ここで最初の子供を出産している。

柳原白蓮

16歳頃の燁子

だが、夫となった北小路資武には知的障害があったといわれており、燁子への暴力や、女中との浮気はしょっちゅうだった。

この不幸な結婚に絶望した燁子は、5年間の結婚生活に耐えたものの、ついに耐え切れず20歳で実家に戻った。

しかし、世間体を慮った実家からは厳しい措置を受けた。

燁子は幽閉同然の生活となり、挨拶以外にはほとんど誰とも口をきいてもらうことがなかったという。
姉・信子の計らいで、古典作品や小説を差し入れてもらい、4年間のあいだひたすら読書にはげんでいた。

1908年には幽閉生活をとかれ、23歳の時に東洋英和女学校に編入学し、佐佐木信綱主宰の短歌会“竹柏会”に入門した。
燁子と短歌の出会いは、この時である。

柳原白蓮

佐佐木信綱。日本の代表的な歌人として有名である

尚、女学校では自分よりもずいぶんと年下の同級生たちをうまく馴染み、中でも後に「赤毛のアン」などの翻訳者となった村岡花子とは親交を深め、“腹心の友”として仲良くすごしていたようだ。

村岡花子は、のちに『赤毛のアン』や『若草物語』など多くの外国文学を翻訳した

この様子は、村岡花子をモデルにしたNHK連続ドラマ『花子とアン』の中でも描かれている。

(村岡花子役は吉高由里子、柳原白蓮をモデルにした葉山蓮子役は仲間由紀恵)

“炭鉱王”との結婚

柳原白蓮

2番目の夫となった伊藤伝右衛門。

1910年11月、燁子25歳の時に、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門(いとう でんえもん)との再婚話が持ち上がった。

伝右衛門は当時50歳に到達しており、燁子とは親子ほどの年齢差があったうえに、労働者からのたたき上げの彼と、天皇家にゆかりのある燁子とは、あまりにも身分の差があった。

このことから、2人の結婚は“黄金婚”と呼ばれ、「華族の令嬢が売り物に出た」と揶揄されることになった。

伝右衛門は柳原家や結婚の仲介者に多くの金銭を送ったと報道され、燁子の兄・義光はそれについては否定していたものの、不釣り合いな結婚相手の元に妹を嫁がせた理由については、「出戻りですからな」と答えたという。

当時はこれほどまでに、離婚歴のある女性に対しての偏見がひどかったのである。

福岡県に嫁いだ燁子は、伝右衛門の子供たちや女中、使用人などに徹底的に教育を施した。

子供たちには高等教育を受けさせ、娘の嫁ぎ先も用意するなど、家内の改革を試みた燁子であったが、やがて遊郭に入り浸っていた夫・伝右衛門から病気をうつされてしまう。

そのことから夫婦の溝が深まる一方であったが、燁子はこの九州での孤独な日々の中で、苦悩や葛藤を短歌に託し、機関誌『心の花』へ発表を続けた。

白蓮事件

燁子とともに白蓮事件を引き起こした、3番目の夫である宮崎龍介。

燁子は、この頃から「白蓮」と名乗るようになる。

福岡天神町にある別邸を中心に、名だたる歌人・俳人らとの交流を深めていった白蓮は、福岡社交界の華として活動した。

そんな中、1919年に戯曲『指髷外道』を発表したことが評判となり、出版の打ち合わせのために編集者である宮崎龍介が燁子の元を訪れる。

社会変革への熱い想いを持つ龍介に出会い、燁子はこれまでに感じたことのない想いにとらわれることになる。

やがて、龍介と恋文を交わし始めるようになった燁子は、限られた時間の中で彼との逢瀬を重ねることとなった。

龍介の周辺では、彼と燁子の恋愛関係の噂が広まり、龍介は編集者としての仕事を解任されることになった。

まだ姦通罪のあったこの時代、道ならぬ恋はまさに命がけであった。
燁子は伊藤家を出る覚悟を決め、自分の後釜のために伝右衛門気に入りの芸妓・舟子を身請けして、伝右衛門の妾に差し出したのである。

そして2人は手に手を取り合い、駆け落ちを実行した。

燁子36歳、龍介29歳の頃だった。

のちにこの事件は“白蓮事件”として語り継がれることになる。

柳原白蓮の晩年

柳原白蓮

晩年の柳原白蓮

龍介との間に2人の子供を授かった燁子だったが、第二次世界大戦の折、終戦のわずか4日前に息子を失ってしまう。

1946年にはNHKラジオにて、子供を失った母の悲しみと、平和を訴える気持ちを語ったことがきっかけで「悲母の会」を結成した。
その後は熱心な平和運動家として、全国を行脚し、会の支部を設立していった。

1961年頃から緑内障のため、両目の視力を失っていった。
夫・龍介の手厚い介護と、娘夫婦の見守りによって、歌を詠みながらおだやかな晩年を過ごしたという。

やがて1967年、心臓衰弱のため自宅で死去。81歳だった。

 

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