日本という国にとって、太平洋戦争は歴史を語る上で外すことができないテーマであることは間違いない。
そして戦争を実際に現場で遂行するのは軍人や兵隊だが、それらを「動かす」ことができるのは政治家である。少なくとも文民統制という体制が整っている近代国家においては、政府の指導層が軍に対して命令をするというのがセオリーであり、軍が政府を無視して行動したり、政府の指示に従わないという状況はクーデターであるということになる。
日本の歴史上最も大きな戦争である太平洋戦争の開戦直前という局面において、政府の立場にあって軍との調整に苦しんだ内閣総理大臣が「近衛文麿(このえ ふみまろ)という人物だ。
彼が歩んだ政治家人生とはどのようなものだったのか、そして彼はどのように太平洋戦争に関わったのか、この記事で解説しよう。
近衛文麿の生い立ちと政治家への道
近衛文麿は、1891年(明治24年)に生まれた。「近衛」という姓は、朝廷に仕える公家(貴族)の五摂家のひとつを指し、爵位は公爵となる。
文麿は満25歳になると、公爵として貴族院議員となり、政治の世界へと足を踏み入れることになった。このころから、近衛の端正な風貌や高い身長は大衆からの人気も高く、一部では「政界のプリンス」などとあだ名されたこともあったようだ。
このころから将来の首相候補と推す声も多かったが、実際に近衛が首相となるのは1937年のことだった。近衛は首相就任にあたり、治安維持法に違反した共産党員や、二・二六事件に加わった者などを大赦(恩赦によって罪を赦し開放すること)しようとするなど、「国内各論の融和」をスローガンとしていた。
しかし就任から1ヶ月後、日中戦争が勃発し、その処理を巡って陸軍大臣・杉山元との対立が生じたり、汪兆銘を通じての中国との早期和平策が失敗すると、1939年には内閣総辞職をしている。
戦争を避けようとした近衛のはたらき
近衛はその後、さらに2度首相の座に就く。2度目の政権では、日独伊三国軍事同盟の締結、日ソ中立条約の締結したほか、日本国内の全政党を自主的に解散させ、戦時中の政治体制の基盤を作った。
これに対しては「一党独裁」の体制を作ってしまったとの批判もある。また、後にアメリカとの決定的な対立要因のひとつとなる南部仏印進駐などを決定した後、7月18日に再度内閣総辞職する。そして1941年、第3次近衛内閣発足直後、近衛を待っていたのは、南部仏印進駐に対してアメリカが行った「対日石油全面輸出禁止」などの経済制裁であった。
近衛はこれを受け、日米首脳会談による解決を目指した。つまり外交・日米交渉による事態の解決を目指したわけである。
近衛最大の敵「統帥権」
しかしながら、外交によって日米の問題を解決することは非常に困難だった。
近衛が呼びかけた日米首脳会談は、アメリカ国務省によって「事実上の拒否」を通告された。米国内では交渉ではなく、日本を力によって抑え込むべしとする考えがあったとの説もある。これにより、日本側では陸軍が日米交渉に先はないと判断し、近衛に対し外交の打ち切りと開戦準備のための圧力をかけ始めた。
ここまでの流れでは、軍が仏印へ進出するのを抑えきれなかった近衛の自業自得とも見えるが、実はそう単純でもない。というのも、当時の日本の国家権力には、行政・立法・司法という現代の3権に加え、「統帥権」があった。統帥権は天皇に帰属する権限であったが、実際にその権力を公使するのは陸・海軍であった。
この統帥権というものは、兵をどこに動かすか、いつ動かすかといった戦略(統帥)に関わる項目について、政府の指示ではなく権限として軍が公使できるものだった。つまり首相である近衛が「どこそこに兵を進めてはならない」「何月何日までは軍を動かしてはならない」といった指示を出すことは、不可能だったのである。そればかりか、統帥に関わる事項と軍が判断すれば、首相に何ら通達せずに兵を動かすこともできた。仮に首相である近衛が統帥に口を挟めば、「統帥権干犯」の問題を引き起こす恐れがあった。
近衛はこの「統帥権」という難敵に立ち向かう手段がなかったわけである。陸軍は、作戦の都合もあり対米交渉における外交期限を10月15日までと示した。
その直前となる10月12日、近衛は当時の陸相であった東条英機を含む首脳を私邸である「荻外荘」に集めた。
いわゆる「荻外荘会談」であるが、ここで近衛は「今、(戦争か外交かの)どちらかでやれと言われれば、外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねば」と言い、10月16日に政権を投げ出し、18日には内閣総辞職してしまった。
次期首相は近衛・東条がともに皇族の東久邇宮稔彦王を推したが、内大臣・木戸幸一らが反対したことにより、結局東条英機が首相となったのである。
近衛の最期
近衛は政治の場から足を遠ざけたのち、戦時中は和平運動を起こしていた。このような動きに対して東条英機は、陸軍軍務局長・佐藤賢了を通して脅しともいえるほどの警告をしていた。しかし1945年、日本は無条件降伏し、第二次世界大戦・太平洋戦争は終結した。
近衛は進駐してきたダグラス・マッカーサーを訪問し「皇室を取り除こうとすれば日本は共産化する」とした趣旨の話をしたとされる。マッカーサーは近衛を高く評価したという。また、近衛はマッカーサーからの指示により憲法改正作業に取り組むなど、すでに新しい日本の体制に組み込まれていたものと本人は思っていたようである。
しかしながら、報道により日中戦争や日独伊三国同盟に関わった近衛の戦争責任を追求する声が上がり始め、とうとう近衛は憲法改正作業から外されたばかりではなく、12月6日にはGHQにより、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることとなってしまった。
近衛は出頭を命じられた最終期限日であった12月16日に、荻外荘で服毒自殺を遂げた。
遺書には、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と残されていた。
おわりに
近衛が戦争を止められなかったことについては、統帥権という制度的な問題であったという指摘や、近衛は少なくとも戦争を避けようとした、といった擁護論がある。また、近衛が強硬に非戦・外交にこだわれば、第二の二・二六事件を招き、かえって国内の混乱を招いただろうという指摘もある。
その一方で、開戦となるか、外交交渉が継続できるかの肝心な場面で国家の舵取りを投げ出したという無責任さや、近衛の手記にある「支那事変(日中戦争)と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり…」という文言に対しても、当時を知る政治家・政治学者から厳しい評価が向けられている。
近衛の行動は「無責任」だったのか、当時の情勢下において近衛に「何ができたか」に各々が思いを巡らせてみるのもまた、歴史を理解するうえでは有意義なことであろう。
2.26事件 とはどのような事件だったのか?【昭和維新】
満州事変と石原莞爾について調べてみた
戦争へ世論を導いた「影の実力者」、徳富蘇峰について調べてみた
この記事へのコメントはありません。