江戸時代の後期に、当時未知の病気だった天然痘(てんねんとう)に緒方洪庵(おがたこうあん)という医師が立ち向かった。
その後、緒方洪庵が開設した「適塾(てきじゅく)」に入門し、天然痘に続いて流行した「コレラ」予防に積極的に取り組んだ人物が、今回紹介する長与専斎(ながよせんさい)である。
長与専斎は、岩倉使節団の一員として欧米に渡り、西洋医学と衛生行政を学んで「衛生(えいせい)」という言葉と概念を定着させた。
今回は日本に「衛生」という言葉と概念を定着させた医学界の先駆者・長与専斎について解説する。
長与専斎とは
長与専斎(ながよせんさい)は、天保9年(1838年)肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれた。
長与家は代々大村藩に漢方医として仕えた家系で、祖父の長与俊達は全国に先駆けて種痘の分野で活躍し、門前に診療客が溢れるほどの名医であったという。
専斎の父・中庵が早逝したために、専斎は9歳の時に祖父・俊達の養子となり長与家の嫡子となった。
専斎は3歳の時から大村藩五教館で漢文の修業を始め、その後16歳で大坂の緒方洪庵の「適塾」に入門する。
適塾を開設した緒方洪庵は、幕末から明治にかけて大活躍する数多くの優秀な人材を育てただけでなく、「天然痘(てんねんとう)」という病気に真摯に向き合い、牛痘の接種という画期的なワクチン研究を広めた人物である。
適塾で当時の最先端の蘭学と医学を学んだ専斎は、持ち前の勉学と才能を認められ、安政5年(1858年)には江戸に出た福沢諭吉の後釜として敵塾の塾頭となるほど優秀であった。
適塾で緒方洪庵から蘭学・医学を学んだ専斎は、大村藩に戻り侍医となった。
文久元年(1861年)専斎は長崎に赴き、医学伝習所でオランダ人医師・ポンペのもとで西洋医学を修める。
その後、ポンペの後任医師・マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
時代は幕末から明治維新という激動の真っ只中であった。
明治元年(1868年)専斎は長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。そして明治維新により同館は長崎府医学校(現在の長崎大学医学部)となり、専斎はマンスフェルトと共に自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行い、専斎は長崎府医学校の学頭に任命された。
岩倉使節団
明治4年(1871年)7月に文部省が設置され、江藤新平が初代・文部卿となり、学制の改革が急速に行われ、専斎は文部中教授として東京に転勤となる。
そして、同年10月に専斎は岩倉使節団の一員として欧米に渡ることになった。
横浜から出航した専斎は、その年の12月にアメリカに上陸した。見る物・聞くこと全てが新鮮で、日本と西洋の余りの違いに驚いたという。
アメリカでの教育機関や病院の視察を終えた専斎だったが、当初思い描いていたものを学ぶことが出来ず、ロンドン・パリを経てドイツのベルリンへと至る。
ベルリンは日本出国当時からの目的地で、医学教育制度の理解を深めようとする専斎にとっては最も関心の高い場所であった。
ベルリンにおいて専斎は、医学教育制度への理解を深めただけではなく、「ゲズンドハイツプフレーゲ」「ゲズンドハイツヴァーセン」「オッフェントリヘキギヘーネ」という言葉で示される「健康保護」への取り組みに注目した。
西洋では政府が住民の「健康保護」に直接関わるための仕組みがあり、「東洋にはその名称さえもなく全く創新の事業」であるとして、これを日本への「土産」とした。
つまり専斎は、日本にも西洋と同じ様に住民の健康に対する政府の「関わり・取り組み」があって然るべきと思って帰国したのである。
衛生
明治6年(1873年)に専斎は帰国し、翌明治7年(1874年)には文部省医務局長に就任し、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務し、この年に東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。
そして、西洋に範をとった「健康保護」のための基本法「医制」を制定する。
「医制」を制定するにあたり、西洋の「ゲズンドハイツプフレーゲ」などの取り組みを表現するための言葉が日本にはなく、それに相当する言葉を思案した専斎はそれを「衛生(えいせい)」としたのである。
「健康」や「保健」といった言葉も思い浮かべたが、中国の古典の一つ「荘子」に収められている「衛生」という言葉を思い出し、自らこの言葉の含みを吟味し、本来の意味と同じではないものの西洋の「健康保護」を「衛生」としたのである。
明治8年(1875年)医務局が内務省に移管されると「衛生局」と改称し、専斎は初代衛生局長に就任する。
専斎は当時流行していた「コレラ」などの伝染病対策として衛生工事を推進し、衛生思想の普及に尽力した。
具体的には貧民の救済・土地の清潔・上下水の引用排除・市街家屋の建築方式・飲食物の用捨に至るまでに及んだ。
まだ流行していた天然痘に対しての種痘を広め、長崎から始まった「コレラ」の流行に対して海港検疫の諸規則を設けた。
さらに専斎は医学校の設立と医師の試験制度に至るまで、医療制度全般の制度の確立と基礎を作ったのである。
おわりに
長与専斎は、現在の厚生労働省の前身となる政府機関を作り、日本の国民に「衛生」という言葉とその概念を定着させた。
師である緒方洪庵は天然痘と戦い、専斎は洪庵が開発した種痘を全国に広げ、新たな感染症「コレラ」に向き合い海港検疫に尽力した。
しかし、開国して間もなかったことで長崎・箱館・神戸・新潟などの港に外国船が次々と入港し、検疫だけでは「コレラ」を防ぐことは出来なかった。
専斎はそれでも諦めずに「コレラ」など伝染病予防のために不完全な衛生環境の整備、特に水道問題等に尽力した人物であった。
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