犬養毅とは
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃した「五・一五事件」、殺害されたのは「憲政の神様」と言われた首相・犬養毅(いぬかいつよし)だった。
犬養の死によって戦前の政党政治は終わりを告げ、日本は軍国主義への道を突き進んでいくことになる。
なぜ犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか?
議会開設以来、一貫して立憲政治を守るために闘ってきたのが犬養だった。
大正時代には、軍の兵力増強要求に対して政党勢力を結集して阻止し、満州事変では中国に密使を送り和平工作に奔走した。
死の2週間前に軍の暴走を徹底批判したラジオ放送など、犬養の壮絶な生き様は現代に何を問いかけるのか?
今回は、「憲政の神様」犬養毅の闘いについて、前編と後編にわたって掘り下げていきたい。
犬養毅の原点
政治家・犬養毅の原点は、慶應義塾大学にある三田演説館である。
岡山から上京した犬養は、明治9年に慶応義塾に入塾した。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出したのである。
それは、「言論で国を動かす政治家への道」であった。
福沢は「日本にも西洋流の議会政治が必要だ」と考え、慶応義塾で模擬国会を開いていた。
当時26歳だった犬養も、弁士として日本初の模擬国会の演壇に立ったのである。
反対論者の発言をことごとく論破していくその姿を、同級生は「颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出るという有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった」と評している。
当時の日本は、言論の時代へと舵を切ろうとしていた。
自由民権運動が高まり、板垣退助が自由党を、大隈重信が立憲改進党を結成し、議会政治を求める機運が高まっていた。
明治22年に大日本帝国憲法が発布、明治23年には帝国議会が開設された。
選挙権を持つ者は、まだ全人口の1%強と限られていたが、立憲政治はようやくその端所についたのである。
この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加し、政治家としての第一歩を歩み始めていた。
犬養毅 政治家になる
36歳で初当選を果たした犬養だが、その前に立ちはだかったのが藩閥政治だった。
当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩の出身者が要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行なっていた。
政党側が政費節減・地租軽減を主張しても、政府はこれを厳しく弾圧し、暴力や買収に加えて選挙妨害も横行したのである。
こうした圧力に、自由党・改進党という2大政党の中にも次第に藩閥勢力との接近を図る者も現れ、さらに政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めていくばかりであった。
憲政の神様
犬養は「このままでは理想の政治は実現できない」と思った。
そして犬養と藩閥との対立は、ある問題を巡って決定的となったのである。
それは、日露戦争だった。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道を敷設するなどの権益を獲得した。
当時の陸軍を掌握していたのは、長州閥の山縣有朋である。
山縣は、ロシアとの再戦を見据え、戦地兵力を従来の2倍に増強して大陸利権の更なる拡大を主張した。
だが、犬養はこれを「日露戦争後の戦後経営は大失敗だ!原因は国力に見合わぬ国防計画と軍事計画にある」と真っ向から批判したのだ。
しかし、犬養の主張を長州閥が認めず、陸軍は政府に2個師団増設を要求した。
時の首相は、立憲政友会の総裁・西園寺公望だった。
立憲政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設された政党で、それを引き継いだ西園寺は藩閥たちと馴れ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当していた。
しかし、財政難の中での軍への更なる支出は、余りにも負担が大きかった。
西園寺が陸軍の要求を拒むと、山縣は陸軍大臣を辞職させて内閣を総辞職に追い込むという策に出た。
後任の首相には長州閥の桂太郎が就任し、軍の要求は実現するかと思われた。
この時、58歳になっていた犬養は、立憲主義を掲げて自らの政党の立憲国民党を旗揚げしていた。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がる。
「この度の一戦は小生の最後の一戦になるかもしれない。万一敗れれば政界を去る覚悟だ!」
大正元年12月19日に、犬養は歌舞伎座の演壇に立った。
大正政変の幕開けである。
「今、政党人に一点の私心がなければ藩、閥打破などたやすいことである!」
犬養には秘策があったのだ。
それは、これまで藩閥との妥協を繰り返してきた立憲政友会を倒閣運動に引き入れることであった。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎行雄が犬養と共に憲政擁護運動を推進したのだ。
新聞には連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に、藩閥の横暴をアピールした。
大正2年2月5日には、熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を突きつけたのである。
ところが桂も反撃に出た。
宮中に働きかけ、天皇陛下から政友会総裁の西園寺に対して「朕の意を体して争いは無事に収めよ」という勅語を引き出したのだ。
天皇の言葉に西園寺は妥協に応じようとするが、犬養は徹底抗戦を主張し、政友会の幹部に「西園寺公は大命を奉ぜられるとともに総裁を辞職なさるが良い。政友会としては、最後まで憲政のために闘うべきそれが本筋である」と進言した。
再開した議会において、政友会は「不信任案を撤回せず」と宣言し、その断固たる態度と民衆の怒号を前に、桂は遂に内閣総辞職に追い込まれた。
藩閥の政治介入から立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に「憲政の神様」と称えられたのである。
だが、藩閥や軍との闘いはまだ始まったばかりであった。
原敬の暗殺と、普通選挙の成立
大正3年、第一次世界大戦が勃発した。
直接戦場とならなかった日本では、軍事物資などの輸出が大幅に伸びて空前の好景気となった。
しかし、資本家や財閥ばかりが潤い、民衆は物価の高騰によって厳しい生活を強いられた。
大正7年、富山で米騒動が始まると、炭鉱や都市の労働者の間にも社会的不満が爆発し、各地で暴動が勃発した。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だとし、「政治は一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし」と考えた。
大正8年、犬養率いる国民党は、議会に選挙権拡大案を提出する。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙に布石を打ったのだ。
だがこの案は、時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまった。
政友会の支持基盤は、すでに選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのである。
しかし、大正10年に原敬が暗殺されてしまった。
その死は普通選挙ばかりか、政党政治自体の流れを停滞させてしまう。
続く政権の座には軍人や藩閥の息のかかった政治家がつき、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになり、犬養自身も逆境となった。
国民党は内部分裂もあって解党し、新たに立ち上げた少数政党・革新倶楽部での活動を余儀なくされたのである。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打つ。
普通選挙を巡って対立していた政友会と国民党から離脱した幹部がいる、憲政会と手を結んだのだ。
護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)の結成である。
大正13年の総選挙で犬養たちは普通選挙を争点に闘い、民衆の大きな支持を得た。
この選挙に勝利して、加藤高明を首班に護憲三派内閣を誕生させたのである。
そして、2年振りの政党内閣のもとで、ついに犬養悲願の普通選挙法が成立した。
納税額の制限が撤廃され、25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられることになったのである。
法案の成立を見届けた犬養は、71歳で政界からの引退を宣言し、残された革新倶楽部の党員は政友会に合流させた。
長年の念願だった普通選挙法が成立したことで、犬養は自分の役割は終わったと一区切りをつけたのだろう。
しかし犬養の戦いはまだ終わってはいなかった。
後編では、犬養毅の首相就任と「五・一五事件」での暗殺について解説する。
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