新天地・東京で新たな道を歩むことになった福来スズ子。梅丸楽劇団の一員として、スズ子の第2ステージが始まりました。
梅丸楽劇団のモデルは、松竹が東京で旗揚げした松竹楽劇団です。
松竹楽劇団の専属団員として上京した笠置シヅ子は、生涯の師となる服部良一や初恋の人・益田貞信と出会い、「スイングの女王」としてブレイクします。
今回は、わずか3年で解散してしまった伝説のレビュー団・松竹楽劇団について、史実を元に解説します。
松竹楽劇団の旗揚げ
戦前、松竹は東京に多数の劇場を所有しており、昭和5年(1930年)には帝国劇場の経営権を取得。帝劇は、松竹洋画系の基幹劇場となっていました。
当時、映画上映の合間に演劇やショーのアトラクションを上演するのが流行しており、松竹は帝劇で映画とレビューの二本立ての興行を考えます。
映画のアトラクションとして、洋画ファンにも喜んでもらえるような、ジャズをたっぷり聞かせる大人向けのレビュー団。それが、松竹楽劇団でした。
昭和13年(1938年)、男女混合の新しいレビュー団・松竹楽劇団が旗揚げされました。
松竹楽劇団の特徴
松竹楽劇団は女性が男役を演じる少女歌劇と異なり、男性を含む新しいスタイルのショーを目指しました。
ショーの3分の2をジャズが占め、舞台に出る歌手やダンサーは約80人。オーケストラは13人の編成でした。
男性コーラスは、眉目秀麗な35人を応募者600人から選び出したといいます。
演目は二週代わりで、一日の上演回数は3回。日曜日は4回行い、公演期間中に次の演目の練習も行うといった、かなりハードなスケジュールでした。
松竹楽劇団の団員とスタッフ
・そうそうたる顔ぶれの団員たち
松竹楽劇団の主な団員は、東京と大阪の少女歌劇団から集められました。
東京から、小倉みね子、天草美登里、石上都、春野八重子。大阪からは、笠置シヅ子と秋月恵美子が選ばれました。
シヅ子は専属団員、秋月は応援要員で、ロケットガールズも応援出演しています。
外部からは、ジャズ歌手のベティ稲田と宮川はるみが参加し、当時人気絶頂のタップダンサー中川三郎も名を連ねました。
中川は17歳で単身渡米し、アメリカ仕込みのタップを日本に持ち込んだ人物です。
益田に誘われ、松竹楽劇団に入団した中川は華麗なタップで観客を魅了し、トップスターになっています。
さらにタップダンサーの稲葉実、松竹少女歌劇団の振付師からダンサーへ転向した荒木陽も参加。
荒木は、教え子とともにステージでダンスを披露しました。
ちなみに秋月恵美子は劇団内でとても評価が高く、中川は「松竹楽劇団の一番人気は美貌の秋月で、はつらつとしたタップダンスのソロで毎回客席をわかせていた」と語り、振付の山口は「秋月は頭が良く、タップもうまい」とベタ褒めしています。
・一流のスタッフ
松竹の楽劇団創設に対する熱意は相当なもので、莫大な資金を投入し、スタッフも一流の面々を揃えています。
団長は、松竹少女歌劇部長兼任の大谷博。
脚本、構成には、世界漫遊から帰ったばかりの益田貞信。
音楽は、正指揮者に紙恭輔、副指揮者に服部良一。楽長の紙は、シンフォニック・ジャズ専門でスイングには向かないため、ノリが良くダンスと相性のいいホット・ジャズは服部が作曲しました。
当時、服部は自身が作曲し、淡谷のり子が歌った『別れのブルース』で一世を風靡していました。
※服部良一について詳しくはこちら
『ブギウギ』羽鳥善一(演・草彅剛)のモデル・服部良一とは? 「天才作曲家の代表曲」
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/75029/
演出には松竹の重役・並木行雄(蒲生重右衛門)。振付は、東西の少女歌劇団で振付をしていた山口国敏、山口清兄弟が担当しました。
ジャズピアニストだった益田がレビューに関わるのは人生初であり、新しいショーへの意気込みや情熱も人一倍強かったのでしょう。
中川によると、製作、監督、演出、選曲を益田が一人で手掛けていたそうです。
男女混合のそうそうたるメンバーとジャズという新しいスタイルのレビューは評判を呼び、松竹楽劇団は連日満員の大盛況。劇団は成功をおさめ、笠置シヅ子は「スイングの女王」としてブレイクしました。
※「スイングの女王」について詳しくはこちら。
「ブギウギ」才能と売りに悩む鈴子。鈴子のモデル・笠置シヅ子の才能を覚醒させた出会いとは?
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/74694/
新納慎也さん演じる松永大星のモデル・益田貞信とは
益田貞信は三井財閥の御曹司で、父親は貴族院議員で男爵の益田太郎。
父の益田太郎は財界の大物でありながら、益田太郎冠者(ますだ たろうかじゃ)の名で脚本や作曲を手掛け、帝劇の女優劇創立に尽力した人です。
益田貞信は元々ピアニストでしたが、ジャズに傾倒し、昭和10年頃、慶応大学出身の華族の子弟や上流階級の友人たちと「フラタニティ・シンコペイターズ」というジャズバンドを結成。年に1度、益田たちは帝国ホテルで友人知人を集めて演奏を披露していました。
バンドでギターを担当していた村上一徳が、松竹の大谷博と親しい間柄で、村上を介して益田は大谷と知り合います。
ショービジネスで一旗揚げようと考えていた大谷は、松竹楽劇団の構想を洋行帰りの益田に相談。劇団設立へと発展していったのでした。
アメリカに遊学して本格的にジャズピアノを勉強した益田は、プロのジャズバンドのピアニストなどは足元にも及ばない技量とジャズの知識、そして一流のセンスをもっていました。
益田貞信の活躍と情熱によって、松竹楽劇団は、それまで日本にはなかった新しいセンスとスタイルをもったステージを展開することが可能となり、成功をおさめました。
しかし、次第に益田と松竹の間がギクシャクし始めます。
インテリ層に向けたアメリカ的なジャズを中心としたショーを考えていた益田と、大衆受けするショーを目指す松竹の間に大きな溝が生まれていたのです。
結局、溝は埋まらず、益田貞信は松竹を去ることになりました。
松竹楽劇団の解散
益田の後を受けて演出を担当することになった並木行雄こと蒲生重右衛門と中川三郎はウマが合わず、益田に続いて中川も退団。第6作『トーキー・アルバム」を最後に、松竹楽劇団を去っていきました。
昭和15年(1940年)には松竹の賃借期限が切れるのに伴い、帝国劇場は東宝へと経営が移ります。
帝劇を失った松竹楽劇団は、邦楽座、国際劇場、横浜オデオン座、渋谷松竹などの直営館を転々とし、上演を続けていました。
しかし、興行成績は振るわず、また時局柄検閲が厳しくなり、昭和16年(1941年)、正月公演をもって松竹楽劇団は解散しました。
新しいレビュー団・松竹楽劇団は、3年という短い期間で幕を閉じたのでした。
参考文献:笠置シヅ子『歌う自画像 私のブギウギ伝記』.宝島社
この記事へのコメントはありません。