
画像:『フロワサール年代記』に描かれたイングランド王妃イザベラ・オブ・フランス(1475年頃) public domain
中世ヨーロッパの王室というと、きらびやかな冠や荘厳な儀式が思い浮かびます。
しかし、その華やかさの裏側には、権力をめぐる激しい争いや悲劇が数多く隠されていました。
王冠は確かに栄光の象徴でしたが、それを手にした者たちは、しばしば陰謀や裏切り、そして血塗られた運命と向き合うことになったのです。
特に、14世紀初頭のイングランド王エドワード2世と、その王妃イザベラ・オブ・フランスの人生には、中世王族が直面した苦悩が色濃くにじんでいます。
今回は、そんな彼らの足跡を中心に、イングランド王室の一幕を振り返ります。
政略結婚の果てに

画像 : エドワード2世 public domain
1308年、当時12歳だったイザベラは、イングランド王エドワード2世の王妃として嫁ぎました。
この政略結婚は、当時緊張関係にあったイングランドとフランスとの間の外交的妥協の一環として行われ、両国関係の一時的な安定に寄与しました。
イザベラはフランス王フィリップ4世の娘として、正統なカペー家の血を受け継ぐ王女でした。
若く聡明な彼女は、新たな土地での生活に希望を抱き、王妃としての責務を果たそうと努力を重ねます。
しかし、エドワード2世の統治は必ずしも安定したものではありませんでした。
彼は父エドワード1世の偉大な遺産を継いだものの、内向的で政治的資質に乏しく、特に寵臣ピアーズ・ギャヴィストンへの依存が問題視されていました。

画像:エドワード2世とギャヴィストンの親密さを描いた絵画(マーカス・ストーン画) public domain
ギャヴィストンは王の幼馴染であり、両者の関係は非常に親密でした。
しばしば王妃よりも優遇されていたことが、イザベラにとって大きな屈辱だったとされています。
この寵愛に対し、貴族たちは激しい反発を示し、ギャヴィストンの影響力を排除しようとします。
最終的にギャヴィストンは1312年に捕らえられ、処刑されました。
しかし、その後も王の寵臣問題は終わりませんでした。
ギャヴィストンに代わって登場したのが、ヒュー・ル・ディスペンサー父子です。

画像 : ヒュー・ル・ディスペンサー(子)public domain
彼らはエドワード2世の絶大な信任を得て権勢を振るい、自らの利益のために専横を極めました。
特にディスペンサー家による領地の強奪や圧政は、多くの貴族と王妃イザベラの敵意を買う結果となります。
実際にイザベラの所領も奪われ、彼女の立場は政治的・経済的に大きく損なわれました。
しかしイザベラは、王妃としての地位に甘んじることなく、次第に自らの政治的立場を確立しようと動き始めます。
その視線はすでに王妃の枠を超え、国家の行く末にまで及んでいたのです。
王妃の反逆と愛人モーティマー
1325年、イザベラはエドワード2世の命を受けて、外交使節としてフランスに渡ります。
表向きは国際交渉のための訪仏でしたが、その裏では、運命を大きく変える出会いが待っていました。

画像 : ロジャー・モーティマーと王妃イザベラ public domain
彼女はそこで、亡命中のイングランド貴族ロジャー・モーティマーと接触したのです。
モーティマーは、ディスペンサー家による迫害を受けて国外へ逃れた人物で、国内に残された多くの反王派の貴族と同様に、王政への反撃を目論んでいました。
イザベラとモーティマーは、やがて密接な関係を築きます。
二人の結びつきは単なる利害の一致にとどまらず、私的な関係へと発展し、イザベラの政治的野心とモーティマーの軍事的手腕が合わさることで、クーデターの準備が加速していきました。
彼らはイザベラの息子、若きエドワード王子(後のエドワード3世)を名目上の正統な指導者として擁立し、軍資金と兵力を集めます。
1326年秋、イザベラとモーティマーは兵を率いてイングランドに上陸。
予想以上に多くの貴族や支持勢力がこの反乱に呼応し、彼らは短期間のうちに勢力を拡大していきました。

画像:クーデタで権力を握ったイザベラ王妃に命乞いをするヒュー・ル・ディスペンサーら public domain
王とディスペンサー父子は逃亡を試みましたが、まもなく捕らえられました。
ディスペンサー父子には反逆罪が宣告され、容赦ない処刑が執行されます。
とりわけ息子のヒュー・ル・ディスペンサーに対しては、当時の重罪人に科せられる最も苛烈な刑が行われました。
民衆の前で罪状が読み上げられ、彼は引き回されたのち、身体を裂かれるという凄惨な最期を遂げたと伝えられています。
その処刑は、王政の腐敗と貴族たちの憎悪が、頂点に達した象徴でもあったのです。
王の失墜と不可解な死

画像:息子エドワード3世とイングランドへ戻るイザベラ(ジャン・フケ画) public domain
エドワード2世は退位を余儀なくされ、その王位は息子のエドワード3世に譲られました。
退位後、元王は幽閉されることになります。
元王の最期については、今も多くの憶測が残されています。
とりわけ有名なのは、拷問の末に命を奪われたという説ですが、当時の記録には不明瞭な点も多々あり、実際にどのような死を迎えたのかは、現在も謎が多く残されています。
またイザベラとモーティマーが元王の最期に関わっていたかどうかについても、真相は依然として歴史の闇に包まれたままなのです。
権力の交代と若き王の決断

画像 : エドワード3世 public domain
ともあれ、イザベラとモーティマーはエドワード2世退位後、一時的にイングランドの実権を掌握することに成功しました。
しかし、その支配は長続きしませんでした。
若きエドワード3世は成長し、自らの王権を確立すべく動き出したのです。
彼は自身の権威を回復し、国家の安定を図るため、モーティマーの存在を最大の脅威と見なしました。
1330年、エドワード3世はノッティンガム城においてモーティマーを急襲し、反逆罪で捕らえました。
モーティマーは四つ裂きの刑に処され、その死は政治的な清算の象徴となりました。

画像:ロジャー・モーティマーを逮捕するエドワード3世とそれを制止しようとするイザベラを描いた絵画(19世紀) public domain
この処刑は単なる報復にとどまらず、王権の強化と王族内部の統制を示すものでした。
一方、イザベラも政治的権力を剥奪され、監視下で静かな生活を送ることを余儀なくされます。
王族としての地位は保たれたものの、その影響力は大幅に低下しました。
彼女はのちに「フランスの牝狼」と呼ばれるようになりますが、これは当時の王妃としては極めて異例の行動力と政治的関与を示したことへの後世の呼び名です。
一連の出来事は、中世ヨーロッパにおける王家の権力争いが、いかに残酷かつ無情であったかを如実に示していると言えるでしょう。
エドワード3世の冷徹な決断は、国家の安定と自身の王権を守るために必要なものでしたが、それは同時に家族や近しい人々に対する痛みも伴うものでした。
一方、イザベラは若くして王妃の役割を担いながら、夫の寵臣や権力者たちの専横に翻弄され、やがて自らの生存と権力をかけて立ち上がらざるを得なかったとも言えます。
彼女の決断は、当時の女性としては異例とも言える大胆な行動であり、政治的な覚悟と愛の狭間で揺れる複雑な心情が透けて見えるようです。
王冠の輝きの裏側に隠された彼ら王族たちのリアルな人間模様は、中世ヨーロッパという時代の特殊性と、その社会構造を理解する上での足掛かりとなるのではないでしょうか。
参考 :
『フランスの雌狼イザベラとエドワード3世』/藤田幸久(著)
Carr,H. (2025). Sceptred Isle:A new history of the fourteenth century. Cornerstone.他
文 / 草の実堂編集部
























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