古代マケドニア王国の アレキサンダー大王 は、その生涯のほとんどを東方への遠征に費やした。
そのなかには中東地域も含まれ、アラビア語・ペルシア語圏でも英雄とされている。
アレキサンダーは支配した地域の文化や宗教を尊重したためである。そのため、彼にまつわる伝説も各地に残されている。
今回はアレキサンダー大王の伝説について調べてみた。
イスカンダル
※ゴルディアスの結び目を断ち切るアレキサンダー大王
「イスカンダル」という名を聞いたことがあるだろうか?
イスカンダルとは、古代マケドニア王国のアレキサンダー大王を指すアラビア語・ペルシア語の人名である。アレキサンダーは西アジア地域でも英雄として記憶されたため、古代の英雄に基づいた人名として男性名に好んでつけられる。
イスカンダルはその支配地域が広大だったため、地域や国によってその扱いも異なっている。
イランでは、アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼした侵略者として記憶され、アラブでは「ズルカルナイン(二つの角をもった王:双角王)」という名の英雄の伝説に語られ、クルアーン(コーラン)にも神から強大な力を与えられて世界を征服した王として登場する。
アッバース朝時代以降の伝統的歴史学では、イスカンダル・ズルカルナインは古代イランのカヤーニー王朝の偉大な帝王として位置付けられている。つまり、イスカンダルはマケドニア(ギリシア)の王ではなく、古代イランの王として伝えられたのである。
さらに文学ではフェルドウスィーやニザーミーといった著名な作家たちが韻文や散文による『イスカンダル・ナーマ』(アレクサンドロスの書)を著している。これらの作品ではイスカンダルとアリストテレスが理想的な「君主と宰相」像として描かれている。
ファラオ
※アメン大神殿の大列柱室
紀元前332年、エジプトまで辿り着いたアレキサンダーを待っていたのは、武装したエジプト人ではなく、解放者としてアレキサンダーを迎える市民たちの姿であった。
エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかった。アルタクセルクセス3世は軍事の才能は高かったが、暴君であったとされている。そのため、アレキサンダーはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。
アメン神殿は、エジプト最大の神殿であるカルナック神殿複合体のなかでも最大の神殿である。
エジプトの首都カイロからナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった東岸に位置し、テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)の最高神であるアメンに捧げられている。神域の周壁は日乾煉瓦で築かれ、厚さ10メートル、一辺の長さは約500-600メートルであり、東西540メートル、南北の西辺600メートル、東辺500メートルとなる。
この巨大な神殿に祭られているアメン神とは、ラー神と一体化、「ラー=アメン」としてエジプトの歴史・文明の中心に位置し、エジプトの神々の主神とされており、大気の守護神、豊饒神である。
アレキサンダー大王は、古代エジプトの偉大な文明にいたく感動し、この地を訪れた。すると1人で神殿に足を踏み入れた彼に神の神託(オラクル/oracle)が下がったという。
「お前はアモンの息子である」と。
彼からこの話を聞いた家臣たちは、事があれば彼を「ゼウス・アモン(Zeus-Ammon:いずれも宇宙や太陽を司る神)の息子」と呼ぶようになり、死後に造られたコインの肖像には、アモン神のように、頭に羊の角(つの)2本が描かれるようになった。
アレクサンドロス・ロマンス
※生物が実る「もの言う木」に至ったイスカンダル
アレクサンドロス・ロマンスとは、アレキサンダー大王の生涯に多くの空想をまじえ、ユーラシア大陸各地で語り継がれた伝説群の総称のことである。分布地域は地中海地域と西アジアを中心に、インドや中国やエチオピアにまでおよぶ。特に西アジアにおいては、様々な形態で語り継がれている。
前イスラーム期のペルシアでは、アレクサンドロスはもっぱら悪しき侵略者としてのみ伝えられていた。また中東各地に存在したユダヤ教徒やキリスト教徒のあいだでも独自のアレクサンドロス伝承が語られている。
7世紀に興ったイスラムが地中海世界におけるアレクサンドロスの伝承をイランに持ち込んでからは、アレクサンドロスのイメージは「善き英雄」としてのものに変質しはじめる。そのイスラムの聖典『クルアーン(コーラン)』のなかにも「ズー・アル=カルナイン/ズルカルナイン(二本角)」という人物が登場するが、これはアレクサンドロス大王がモデルであるというのがほぼ定説になっている。二本角についての物語は分量としてはごくわずかであるが、彼は世界の果ての探求者であり、アッラーの言葉を聴くことができる者(預言者)として描かれている。
11世紀イランの詩人フェルドウスィーは、イランの伝説上の英雄たちの功業を描いた一大叙事詩『シャー・ナーメ』(『王書』)のなかにアレキサンダー(カイ・イスカンダル王)を登場させた。物語の中でアレキサンダーは伝説的なカイヤーニー朝の最後の王で、ダレイオス3世(ダーラー)の弟ということになっている。史実上のダレイオス3世は、ペルシアの王でありアレキサンダーとは何度も戦った人物である。
このように、アレキサンダーの名は様々な伝説となって今も残っているのだ。
ゴルディアスの結び目
アレキサンダーの伝説で一番有名なのが「ゴルディアスの結び目」である。
その昔、フリギア(古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名)では、世継ぎの王がいなくなってしまった。
そこで神の信託を仰ぐと「牛車に乗ってやってくる男がフリギアの王になる」という。ちょうど神殿へ牛車に乗って入ってくる男がいたが、それはのゴルディアスという貧しい農民であった。にわかには信じがたい神託であったが、ゴルディアスの牛車には、神の使いの鷲がとまっていたため、それを見た占い師の女が、彼こそが次の王だと高らかに叫んだ。
こうして王となったゴルディアスは神の予言に感謝を示すために、乗ってきた牛車を神に捧げた。そしてミズキの樹皮でできた丈夫な紐で荷車の轅を、それまで誰も見たことがないほどにしっかりと柱に結びつけ、「この結び目を解くことができたものこそ、このアジアの王になるであろう」と予言する。その後、この荷車を結びつけた結び目はゴルディアスの結び目として知られ、結び目を解こうと何人もの人たちが挑んだが、結び目は決して解けることがなかった。
数百年後、大遠征の途中でこの地を訪れたアレキサンダーは、その話を聞くと剣を持ち出し、その結び目を一刀両断に断ち切ってしまい、結ばれた轅はいとも簡単に解かれてしまった。
この故事によって、手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決しまうことのメタファー「難題を一刀両断に解くが如く」(英: To Cut The Gordian Knot )として使われるようになる。
ブケパロス
※愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス
アレキサンダーがまだ少年だった頃の話である。
ある日、馬商人がアレキサンダーの父・ピリッポス2世のもとに「ブケパロス」という名の馬を売りに来た。それは惚れ惚れするような黒毛の馬で、値段もとびきり高い。ブケパロスとは「牛の頭をした」という意味である。古代ギリシアにおいては牛は力の象徴だった。後にギリシア神話に登場する「牛の頭を持ち人間の身体をしたミノタウロス」も、起源はそこにある。
ともかく、ピリッポス2世はその馬を見てすっかり気に入ってしまったが、ブケパロスは暴れ馬で誰も手に負えない。ピリッポス2世は苦りきって連れ去るように命じた。しかし、それを引き止めたのがアレキサンダーだった。
彼は、「ああ、もったいないことだ。乗り手が下手なためにこのような馬をみすみす失うとは」と呟く。
父はその言葉に怒り、「お前なら出来るのか?」と問うた。少年は「できますとも」とさらりと答える。
そうして、父と馬の代金を賭けてブケバロスに跨った。結果は、アレキサンダーの勝ちであった。彼は馬が太陽に背を向けていたため、前に落ちる自分の影に怯えていることを見抜いていたのだ。そのため、馬の向きを変え、気を静めてから跨ると自在に操った。
それを見たピリッポス2世は「おお、お前は自分にふさわしい王国を求めるが良い。マケドニアはお前には小さすぎる」といって喜んだという。
なお、有名な「ブケパロスに騎乗したアレクサンドロスの壁画」は、イタリアのポンペイの遺跡から発掘されている。
最後に
大地は平らで果てがあると信じられていた時代、アレキサンダーはその遠征によって多くの地域に影響を与えた。
それは当時としてはまさに世界中(当時、認識されていた範囲)の王であった。それ故に伝説も多く残っている。時にはイスカンダルと名を変え、さらには宗教の壁さえ超えて。
その事実だけはアレキサンダーという男の偉業を物語っている。
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