ルイ・シャルルとマリーテレーズ
18世紀。フランス革命で断頭台の露に消えた王ルイ16世と王妃マリーアントワネット。
二人は生前4人の子供たちに恵まれた。うち、長男ルイ・ジョセフと次女ソフィは病の為、先立つことになるが、長女マリーテレーズと次男ルイ・シャルルは両親が処刑された動乱の革命期に取り残されることとなる。
フランス史上最も名高い夫婦の子供たちが、その後どんな人生を送ったのが調べてみた。
両親との別れまで
ルイ16世とマリーアントワネットの次男ルイ・シャルルは1785年3月に誕生した。
ヴェルサイユ宮殿一階の子供部屋で、優雅で快適な環境が彼を取り囲み、侍女・養育係・医者など…多くの人に傅かれてすくすくと育つ。
ルイ・シャルルはデリケートな性格だったと言われているが、頭の回転は早く、愛情深く茶目っ気があり、母親であるマリーアントワネットは「私の愛のキャベツ」と呼び彼を寵愛した。
1789年、フランス革命が勃発した二ヶ月半後「バスティーユ陥落」の10月。まだ4歳だったルイ・シャルルは、パンを求めて居城であるヴェルサイユ宮殿に押し寄せてきた敵意ある民衆たちを目の当たりにした(ヴェルサイユ行進)。
10歳であった姉のマリーテレーズは、この時の様子を「城の内庭は恐ろしい光景を呈していました…ほとんど裸の大勢の女たち、槍で武装した男たちが恐ろしい叫び声で私たちの部屋の窓を脅かしました…」と回想している。
その後国王一家はヴェルサイユからパリへ連行されるが、その際、ルイ・シャルルは母親に悪態をつく民衆に向かって「グラース、プール、ママン!(ママを許してあげて)」と叫んだ。
これまで想像することさえできなかった、大人たちの恐ろしい世界に引きずり出された幼い姉弟の不幸が、ここから始まった。
以降、ルイ・シャルルとマリーテレーズは両親と共に荒廃したチュイルリー宮殿で過ごし、1791年6月、ヴァレンヌへ逃亡しようとするも失敗。
1792年8月、今度は武装した市民と軍隊によりチュイルリー宮殿が襲撃され、捕らえられた一家はタンプル塔へと幽閉される。
翌年1793年1月に父親であるルイ16世が処刑され、7月に、それまで一緒の部屋で過ごしてきたルイ・シャルルとマリーテレーズは引き離され、翌8月には母マリーアントワネットがコンシェルジュリーに収監され10月に処刑される。
タンプル塔の、それぞれ別々の部屋に取り残された姉弟には、母の死すら知るよしがなかった。
歴史家を2世紀に渡り釘付けにした ルイ・シャルル
母マリーアントワネットと引き離されたルイ・シャルルはその後、タンプル塔で「革命家」に仕立て上げるための「教育」を受けた。髪を短く切られ、革命服を着せられ、「教育」という名の暴力・性的虐待・飲酒の強要が行われたという。
それらは未熟な精神をコントロールするのにさして時間はかからず、彼は自分が何者であったかすら忘れ、革命歌を大声で歌うようになった。
1794年1月。ルイ・シャルルは光も届かない8畳ほどの独房へ入れられた。一日一食のパンとスープが小窓から差し出されるのみだった。
当時、姉のマリーテレーズは弟の面倒を見させて欲しいと懇願し続けていたが、それは叶えられなかった。そして独房へ幽閉されて8ヶ月後……そこには、やせ細り手足の腫瘍で立つことすらできなくなったルイ・シャルルの姿があった。
同年7月になると、テルミドールの政変により革命政府の独裁が崩れ、二人の待遇が見直されるが1795年6月にルイ・シャルルの死亡が明らかにされた。
しかし、ただ苦痛に耐え、死を待つしかなかった10歳の幼い少年の物語は、ここで終わりではなかった。
それからフランスでは「タンプル塔で死亡したのは王子ではなく、その身代わりとなって捕らわれていた少年で、本物の王子はすでに塔から救出され生存している」という噂が広まった。
自称王子と名乗り出る者が次々と現れ、その数は40人にもおよんだという。
であれば、タンプル塔で死んだ少年は誰だったのか?王子本人だったのか?真相解明についての議論は、世界中の歴史家の間で2世紀に渡り続くこととなる。
この長い歴史ミステリーが、現代の科学調査によって正式に解答されたのは2000年4月。
協会に保存されている少年の心臓のDNAと母親であるマリーアントワネットの頭髪のDNAを比較。
4ヶ月にも及ぶ調査で、タンプル塔で死んだ少年は間違いなくルイ・シャルル本人であったことが判明したのだった。
一度も微笑んだことがないマリーテレーズ
では、一方姉のマリーテレーズはその後どうであったのか。
ルイ・シャルルが死亡した1795年、当時16歳になっていた彼女もまた、孤独な幽閉生活で言葉を忘れかけ、明瞭な発音ができなくなってしまっていた。
しかし彼女は生き延び、その年の12月。3年4ヶ月ぶりに自由となったが、そこで知らされたのは母と叔母と弟の死である。おまけに、政治的策略で一度も会ったこともないアルトワ伯の長男アングレーム公爵と結婚させられた。
1799年6月。ロシアのミタウにて結婚式を挙げるが、11月にはブリュメール18日のクーデターによりナポレオンをフランスの第一人者とみとめたロシアは、保護していた彼らが無用となりミタウから追い出した。
1801年1月。マリーテレーズは吹雪の中を放浪し、ワルシャワにたどり着く。
1804年5月。ナポレオンが皇帝となるとロシアは再びフランスと敵対し、彼女はロシアの保護を受けミタウに戻る。
このように、彼女は激動の時代に翻弄され、何度も流浪を余儀なくされた。
1814年5月。ナポレオンがロシアで大敗し退位に追い込まれると、ルイ18世(プロヴァンス伯爵)らと共にフランスへの帰還を果たす(第一次王政復古)。18年振りの故郷であった。その後ナポレオンがエルバ島を脱出するとマリーテレーズは一旦ロンドンへ亡命するものの、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れ(100日天下)退位宣言に署名。
1815年に再びルイ18世らと共にパリに戻る(第二次王政復古)
ルイ18世の時世の下、フランスに戻ったマリーテレーズは王政時代の旧習にこだわり、ナポレオン時代に貴族に取り立てられた人々に対して皮肉を浴びせ続けた。また、弟のアルトワ伯爵と積極的に推し進めていたのは、個人の自由を束縛する「保案法」を議会に通過させることであった。そして革命期の裁判所を臨時即決裁判所と名前を変えて復活させ、ナポレオンの協力者57名ほか、新たに死刑にすべき1000人の名簿を提出。
結果、1815年7月から翌年までの一年間に、臨時即決裁判所では2280件もの裁判が行われ、5000人が有罪判決を受けた。また、王政支持者による白色テロで200人~300人が殺害され、マリーテレーズも国王に対し「恩赦を与えないように」と常に助言していたという。
彼女の父ルイ16世と母マリーアントワネットは死に臨んで、自分達の死に対する復讐をしないようにと言い残しているが、どうやら二人の願いは届かなかったようである。
その後フランスは7月革命、2月革命…と激動の時代は続き、1851年ナポレオン3世がクーデターを起こす約2ヶ月前の10月に、マリーテレーズは72歳の生涯を閉じた。
彼女は、成人してから表情が常に厳しくて一度も微笑んだことがなく、冷淡で愛想の良さや優雅さに欠けていたと言われている。
私は思う。突如生活を踏みにじられ、家族を奪われ、利用され、翻弄され続けた彼女の人生に、微笑む余裕などあっただろうか?
晩年の彼女は涙もろく、泣いていてばかりいたという。そして残した遺書には失望と落胆のみが綴られていた。
さいごに
前述通り、ルイ・シャルルは自分が何者であったかを忘れ、わずか10歳でこの世を去った。一方姉のマリーテレーズは、自分が何者であったかを忘れられずに長い生涯を過ごした。
果たしてどちらが不幸であったのだろうか?
いずれにせよ、彼らもまた自由・平等・博愛を掲げた人権宣言の、悲運な犠牲者であったことは間違いない。
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