オーストリア・ハンガリー帝国 とは、1867年から1918年までの間存在していたハプスブルク家の帝国です。
もともとこの国はオーストリア帝国という普通の国でしたが、とあることがきっかけでオーストリア帝国は国名にハンガリーをつけなくてはいけなくなったのです。
今回はそんな特殊な帝国、オーストリア・ハンガリー帝国について、わかりやすく解説いたします。
普墺戦争とアウスグライヒ
古来より中欧で強大な勢力を持っていたハプスブルク家。
もともとこの一族は神聖ローマ帝国の皇帝を長年やってきていましたが、ナポレオンに敗北したことによって神聖ローマ帝国皇帝の座を失い、オーストリア皇帝一本で勢力を保つようになります。
そんなオーストリア帝国でしたが、18世紀になるとドイツ民族の指導国の座を巡ってプロイセン王国と対立(※普墺戦争:ふおうせんそう)
しかし、オーストリア帝国は国内の民族の分裂や、鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセン軍の活躍により普墺戦争において敗北。オーストリア帝国はドイツ民族の指導国の座をプロイセンに奪われてしまい、オーストリアは弱体化していきます。
オーストリア帝国には弱点もありました。それは異民族の多さです。特にハンガリーの地域にいたマジャール人(ハンガリー人)は特に民族運動が活発であり、オーストリア帝国はこの問題をどうにかしなければなりませんでした。
そこでハプスブルク家はアウスグライヒ(妥協政策)をすることによって、マジャール人が住んでいる地域をハンガリー王国として一応の自治を認めました。そして皇帝はオーストリア帝国を治めつつ、そのハンガリー王国の国王にもなるとし、世にも珍しい二重帝国であるオーストリア・ハンガリー帝国 が成立したのでした。
バルカン半島の進出と混乱
こうして二重帝国となったオーストリア・ハンガリー帝国でしたが、この帝国は異民族の問題と同時に、港の少なさも課題の一つとなっていました。
当時、帝国内にはトリエステと呼ばれる港しか目立った港はなく、しかもその土地はイタリア人によるイタリア回帰運動が強い地域でもあったのです。そこで帝国はトリエステに代わる新たな港を手に入れるために南下を開始。
バルカン半島に進出していき、1908年にボスニア・エルツェゴビナを併合して港を手に入れる一方で、どんどんバルカン問題を激化させていきました。(※バルカン半島は以前から複雑な民族対立が多く、ヨーロッパの火薬庫とまで呼ばれ、第一次世界大戦の要因の一つになった)
サラエボ事件と第一次世界大戦
ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した6年後の1914年に、大事件が起こります。
オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子でもあったフランツ・フェルディナントと、妻ゾフィーが、ボスニアの首都であったサラエボにて軍隊の閲兵をしようとした矢先に、帝国のボスニア支配に反発したセルビア人青年により暗殺されてしまったのです(※サラエボ事件)
このサラエボ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国は、暗殺した青年の後ろ盾にセルビア王国がいたとして宣戦布告。同じく同盟国であったドイツ帝国と手を組み、セルビア王国側ではロシア帝国とフランスが手を組み、ついに第一次世界大戦の幕が上がりました。
こうしてオーストリア・ハンガリー帝国は戦争への道を歩み始めましたが、ここでも異民族の問題がたたってしまい、あまりぱっとした活躍はできませんでした。
さらに、三国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア)で同盟関係を結んでいたはずのイタリアが、敵対する三国協商(イギリス・フランス・ロシア帝国)側として参戦したことを受けて、帝国軍はアルプス方面にも軍を裂かなければいけないようになり、戦況はどんどん劣勢になっていきます。
さらに、ここに来て不運は続き、1916年にはオーストリア・ハンガリー帝国成立時から、帝国のシンボルとして皇帝の座に君臨していたフランツ・ヨーゼフ1世が死去。
ただでさえ酷かった民族運動がさらに激化していくようになります。
外からはロシアやフランスの攻撃。内からは民族運動。さらに1917年に入ってアメリカ合衆国が協商国側として参戦すると一層戦局は悪化していき、ついに1918年にはチェコスロバキアの独立が原因で帝国は崩壊。
13世紀から続いてきたハプスブルク家の統治の終わりとともに、二重帝国はもろくも消滅していったのでした。
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