フランスの英雄ナポレオン・ボナパルト(仏語: Napoleon Bonaparte、1769年8月15日 – 1821年5月5日)は、イタリア方面軍司令官だった時代に、フランス軍を率いてエジプトに上陸、ギザのピラミッドの近くで戦闘を行った。
これが「ナポレオンのエジプト遠征」である。
しかし、なぜフランス軍は若き英雄と共にアフリカまで遠征したのか?それによって、ナポレオンは何を得られたのか?
欧州諸国の思惑
ナポレオンがエジプトまで遠征した理由は、イギリスへの牽制であった。
すでに大陸制覇を進めるフランスにとって、イギリスは最大の障害である。ドーバー海峡の向こうにあり、直接侵攻するわけにもいかず、かといってその勢力は見過ごせない。
当時のイギリスはすでにインドを植民地化しており、植民地と本国とに連絡を取るに当たりエジプトを経由していた。そのため、エジプトを押さえることでイギリスの経済にダメージを与え、あわよくばイギリスとの連絡を遮断してインドを手に入れることもできる。
エジプトは当時、オスマン帝国の領土になっていたが、長い統治の間にイスタンブールの帝国政府が及ぼす支配力は衰えを見せており、半ば自治化されていた。非アラブ系の白人奴隷からなるマムルーク(奴隷戦士)たちが事実上の支配者となっていた。
そこで、フランス政府はフランス革命になぞらえて「エジプトの民衆を支配者から解放する」という大義名分を掲げたのである。
さらに、友好国のオスマン帝国の正統な支配を助けるという名目を盾にエジプトに侵攻することとなった。
エジプト上陸
ナポレオンの名言に「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」というものがあるが、これはエジプト遠征の際の言葉ではない。当時の欧州ではピレネー山脈(フランス-スペイン国境)を越えた地はアフリカと同等の扱いであった。
そこでナポレオンは地中海を南下して、1798年7月3日、アブキールの港からエジプトに上陸した。翌日には地中海岸の最重要都市アレクサンドリアを占領。真夏のエジプトという悪条件であったが、フランス軍は快進撃を見せた。
彼らはエジプトの首府カイロへ最短距離で行くために砂漠の真ん中を行軍してカイロに迫ると、7月21日にはカイロ近郊のナイル川河畔のエムバベでエジプトの主力ともいえるマムルーク軍と戦闘を開始する。
しかし、この戦いでは、きらびやかな衣装に身を包み、ショールを着込んで馬を駆り、ものすごい速さで迫り来る中世さながらのマムルーク騎士に対し、銃剣を装備した歩兵を主体とし方陣隊形を組んだ近代的なフランス軍が圧勝を収めた。
マムルークの機動力に対して、ナポレオンは部隊の連携で迎え撃つ。
戦闘はあまりにも至近距離で行われたため、フランス軍の銃の発火装置が敵の衣装に引っかかり、マムルークは火達磨になるものも多かった。
結果、1500騎のマムルークを壊滅させた激戦であったにもかかわらず、フランス軍の死傷者はわずか数十名であったという。
この戦いは、三大ピラミッドのあるギザまでわずか15kmのこの地でピラミッドを望みながら行われたため「ピラミッドの戦い」といわれている。
このときナポレオンが放ったとされる「兵士諸君、4000年の歴史が見下ろしている」という言葉は有名であるが、この言葉はセントヘレナ島での回想記が初出である。
エジプト占領
ピラミッドの戦いに勝利したフランス軍はその勢いのまま南進し、翌日カイロ市はフランス軍に降伏した。
7月25日、ナポレオンはカイロに入城。フランス軍は上陸からわずか3週間でエジプト征服をほぼ完了した。これはエジプト全土を占領したということである。
しかし、マムルークは全滅したわけではなかった。上エジプト(エジプト南部)ではカイロから逃げ去ったマムルークたちが再起をはかり、抵抗を続けている。さらにオスマン帝国は、フランスが支援ではなくエジプトの実権を握ったことに怒り、兵を挙げることになる。
オスマン帝国は、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって構成される第二次対仏大同盟に参加し、フランスに宣戦布告した。
しかも、カイロ征服からわずか1週間後の8月1日には、イギリス海軍提督ホレーショ・ネルソン率いる地中海艦隊がアブキールを守っていたフランスの艦隊を殲滅(ナイルの海戦)、フランス軍の補給と退路を奪いつつあった。
フランス軍は、アレクサンドリアの占領後にアラビア語による布告を出し、住民に向けて自らが「解放者」であることを広く宣伝した。
しかし、カイロ入城からわずか3か月後の10月21日にはカイロで暴動が発生。これによりフランス軍側に死傷者が出たことで、フランス軍はエジプト人2,500人以上を殺害してしまった。エジプトの民衆の心も離れ、周囲を敵に囲まれたフランス軍は急速に孤立してゆく。
フランス軍の敗走
ナポレオンは、上エジプト(エジプト南部)のマムルーク討伐と同時に、オスマン軍を撃退すべくシリア地方へと北進。
翌1799年にパレスチナに入ってヤッファを占領したが、その先のアッカ(アッコ)の攻略に失敗し、撤退した。なお、ヤッファのフランス軍内ではペストが流行し、ナポレオンは大勢の患者を置き去りにするしかなかった。
しかし、ナポレオン自身、後にその責任を問われることを考えて、当時は触れることすら恐れられていたペスト患者を自らが見舞う絵を描かせている。それが有名な『ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』である。
その間にヨーロッパの情勢も動き始めていた。
フランス本国でもイギリス、オーストリアがフランスに対して攻撃を再開。ナポレオンは遠征を中断せざるを得なくなり、8月22日、ナポレオンは少数の側近とともにひそかにエジプトを脱出する。残された兵は補給を絶たれ、現地人の抵抗と疫病に悩まされるしかない。
2年間に渡る戦いの末、フランス軍の生き残り1万5000人はイギリス・オスマン帝国に降伏、フランスへと帰国した。
しかし、当時のフランス本国はイギリス、オーストリアだけではなく、国内で続発する反乱、正常に機能しない政府など、混乱が激しかったため、カリスマとしてのナポレオンを一刻も早く呼び戻す必要があった。
そのため、事実上の敗走をしたナポレオンに対し、国民は喜びでこれを迎え入れる。
エジプト遠征で得たもの
政治的、軍事的視点から見ればナポレオンのエジプト遠征は、現地人の心を掌握できず、対外的にも戦争を誘発するだけで成果の得られないものだった。しかし、それにはナポレオンの立場では介入できないレベルの、政治上の判断ミスも原因にある。
一方で、学術的には大きな収穫を得られた。
ナポレオンはエジプトへの遠征にあたって167名の科学者や建築技術者からなる学術調査団を同行させた。王家の谷、カルナック神殿など多くの貴重な遺跡を始めて学術的に記録したのである。
なかでも、ロゼッタ・ストーンの発見は、もっとも有名な業績として伝えられている。
ロゼッタ・ストーンとは、エジプトのロゼッタで1799年に発見された石版のことで、この発見によりエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他のエジプト語の文書が続々と翻訳されることとなった。
ロゼッタ・ストーンはより大きな石柱の断片の一つだが、後にロゼッタでおこなわれた調査では残りの部分は見つかっていない。
最後に
エジプトを征服するための軍団に学術調査団を随行させたことが、結果的には人類そのものの財産を発見したことになった。
皮肉にもナポレオンが得たものは「4000年の歴史」の一部だったのである。
軍人としての才能は疑うべくもないが、ナポレオンの教養と知的探究心がなければ、エジプト史の解明は大幅に遅れただろう。
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