シベリア出兵は何故起きたか?
シベリア出兵とは、ロシア革命に対する干渉戦争の一つである。
1918年から1922年までに日本、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国などの連合国が、ロシア革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを名目に、共産主義を封じ込めるためにシベリアに共同出兵を行った。
シベリア出兵には、第一次世界大戦が大きく関わっている。
第一次世界大戦(1914年~1918年)では、ヨーロッパは二陣営に分かれて戦っていた。
イギリス・フランス・ロシア帝国の三国協商 vs ドイツ帝国・オーストリア(ハプスブルク)帝国・イタリアの三国同盟
そして戦場は、2つの戦線を生みだした。
1. 東部戦線:ロシアとドイツの国境地帯
2. 西部戦線:ベルギーとフランスの国境地帯
しかし、東部戦線でロシア帝国軍は大敗した。
その理由は「補給線の確保の失敗、ドイツ帝国軍の鉄道網と飛行機利用作戦に遅れを取った」ことなどが挙げられ、軍の近代化の遅れが大敗をもたらしたと言える。
この敗北は、ロシア帝国の屋台骨を揺るがす結果となった。
そして経済が崩壊し、1972年にレーニン主導の「社会主義革命」が起こったのである。
ソビエト連邦の誕生である。
誕生間もないソビエトは、内政を固めるため、ドイツ帝国と和解する単独条約を結ぶ。
ドイツは東部戦線に戦力を分散せずに、西部戦線・フランス国境に軍を集中させて大戦果を挙げ、三国協商軍を追い詰めた。
三国協商軍を含む連合国側は、こうした事態の打開策として「シベリア出兵」を行ったのである。
そうすれば、ドイツの目は東へ向かざる得なくなる。
これは、ヨーロッパ西部戦線で余裕がないイギリスとフランスの意図であり、アメリカと日本が相談を持ちかけられた形となる。
日本の出兵理由としては
・国境を挟む日本保護下の朝鮮半島防衛
・労働者や小作人が度々争議を起こす社会背景があり、社会主義を抑えたい
・北樺太油田地帯への領土野心
などが、挙げられる。
どうしてポーランド孤児は取り残されたのか?
1763年、ロシア皇帝エカテリーナ二世は、元愛人のスタニスワフをポーランド新国王に即位させた。
そして1795年にポーランドは、ロシア・オーストリア・プロイセンにより3分割された。
しかしロシア帝国軍の兵役に対する抗議運動が起こり、政治家たちも運動に賛同し1863年に反乱が起こった。
反乱は1864年には鎮圧されたが、参加者には厳しい処遇が待っていた。
公式記録では、1万8672人のポーランド人が家族と共にシベリアへ流刑となった。(※8万人という説もある)
1919年、大戦終結時のヴェルサイユ条約でポーランドの独立が承認されたが、多くの人々がシベリアの地に残されたままだった。
流刑地のポーランド人は帰国しようとしたが、社会主義革命がロシアに内戦をもたらしていた。
さらに1920年、ポーランド・ソビエト間で戦争が始まる。
その結果、シベリア鉄道はストップし、本国帰還も出来なくなった。
餓死する親子、極寒地での凍死、満足な医療を受けることなく病死する人々。
シベリアは、悲惨な現実で満ちていたのである。
日本が関わった理由とは?
シベリア同胞を救うため立ち上がったのが、ウラジオストク在住のポーランド人たちであった。
飢餓・凍死・疫病で親を亡くした孤児だけでも救いたいという想いで、1919年9月「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。
代表にアンナ・ビェルキェヴィチ女史が就任し、副代表に社会活動家の医師ユゼフ・ヤクプキェヴィチが就任した。
当初、「ポーランド救済委員会」は、同胞孤児の保護をヨーロッパ諸国やアメリカに協力を求めた。
しかし期待は裏切られ、ヨーロッパとアメリカは力を貸すことはなかったのである。
拒否の理由は以下の2点である。
1. 費用がとてつもなく必要
2. 大国ロシアから敵視される恐れ
悲嘆にくれる彼らが最後に望みを賭けた国が、日本だった。
アンナ女史は、ウラジオストク日本領事の支援を得て、東京で陸海軍大臣に会う。
当時の陸軍大臣・田中義一、海軍大臣・加藤友三郎はポーランドへの支援を約束した。
外務省がこの件を担当し、日本赤十字が調査にあたる。
皇室も関心を示し、さらにシベリアのポーランド孤児を救う動きは加速していく。
1920年7月、最初の孤児たちの第一団が敦賀港に到着。
1922年まで8回、合計で765名の孤児たちが来日したのである。
助けられた孤児のその後は…?
ポーランド孤児には多くの同情が寄せられ全国から多額の義援金が集まった。1922(大正11)にも救出。総計で765人が日本の孤児院等で過ごし、元気を取り戻したのち横浜港や神戸港から帰国の途に。1929(昭和4)成長した孤児らはワルシャワで極東青年会を設立。現在「シベリア孤児記念小学校」に名を遺す。 pic.twitter.com/Ju1FZRE3GF
— 吉塚康一💙💛/毎日が100周年/百年ニュース (@KoichiYoshizuka) July 23, 2020
ウラジオストクから福井県の敦賀の港へ到着したポーランド孤児たちは、衣服の熱湯消毒を受け、用意された浴衣やお菓子、飴などを貰った。
その後、大阪の病院看護師寮、東京の福田会へ移動し、体力回復と病気治療を受けた。
孤児たちに大いに同情した国民は、散髪や歯科治療ボランテイアや金銭や服の寄付などを行った。
学生たちは、音楽会を開き、65人のポーランド人が孤児達の世話係に雇われた。
日本赤十字では、これが初めての人道支援事業となる。
約2年の滞在期間後、765名の孤児達は本国へ帰還した。
帰国した孤児たちは、首相や大統領までもが出迎え、歓迎を受けた。
身寄りがない彼らの多くはヴェイヘロヴォ孤児院(バルト海沿岸の都市)で育った。
この孤児院では、毎朝子どもたちが校庭で、「君が代」を合唱する日課があったという。
1928年、シベリア孤児同窓生によって「極東青年会」が設立された。
当初は12名の団体だったが、数年後には600人を超える組織に成長。
彼らの存在により、ポーランド国民に、日本のシベリア孤児救済が広く知れ渡ったのである。
終わりに
「シベリア出兵」には否定的な意見が多く存在する。
3,000人の戦死者と国家予算規模の戦費を出して得るものがなく撤退したばかりか、日本の長期シベリア出兵は諸外国から領土野心を疑われた。
極東青年会 元副会長ヤクブケヴィッチ氏はこう語っている。
日本人は、祖国ポーランドとは全く縁故なく、地理的にも遠い異なる人種民族であるにも関わらず、不運なポーランド孤児に同情と憐憫の情を深く表わしてくれた。
我々はその恩を決して忘れない。
全てポーランド国民は、日本に、比類なき尊敬と感銘・筆舌し難い恩、最も温かい友情を抱いていると伝えたい。
参考文献
もうそんなこと覚えとる人おらんやろ