中世のイタリア、フィレンツェ共和国は、ヴェネチェアと並びコムーネ(自治都市)を長く維持していた。
しかしフィレンツェでは有力政治家の追放など、内部抗争が続いていた。
こうした激しい対立の中で、なぜフィレンツェは繁栄する事が出来たのか?
今回は台頭したメディア家と、フィレンツェ黄金期の光と影に迫りたいと思う。
フィレンツェ共和国の内部抗争とは?
12世紀初めに自治都市となり、13世紀に共和制に入ったフィレンツェは、外交政策で内部対立が激しくなった。
フィレンツェの内部抗争の原因とは?
北部イタリアでは、ローマ教皇派(ローマ教皇をキリスト教最高指導者として支持する)と、皇帝派(ローマ教皇に承認された神聖ローマ帝国皇帝を指す。ドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部など封建領主の最上位に位置する)に分かれて激しい対立が起こった。
対立の原因は、教皇と皇帝による司教や修道院長の任命権を巡っての争いだったが、北部イタリアでは、貴族vs都市民という構図が多く見られた。
古い貴族階級と台頭する裕福な都市市民の間で、異なる未来図が生じるのは必然であった。
フィレンツェ共和国では、教皇派が辛うじて勝利したが、白党と黒党に分裂してしまった。
白党は、フィレンツェの自立を掲げ、主に富裕な市民階級を中心としていた。
黒党は、封建領主たる貴族階級が主だった。
後に、『神曲』で有名な詩人・ダンテ・アリギエーリは白党に属し、渦中の重要人物となる。
最初、白党が政権を掌握した。
1300年、最高行政機関プリオラートの中の統領3人にダンテも選ばれるが、1301年に黒党が政権を奪うと白党勢力は弾圧され、ダンテは永久追放を言い渡される。
その後、彼は生涯フィレンツェに戻る事なく、イタリア北部都市を流浪し白党同志とも決別した。
ダンテはこうした苦い体験をもとに執筆活動に入ったという。
14~15世紀のフィレンツェ共和国真の支配者・メディチ家とは?
14~15世紀にかけフィレンツェは、繁栄期に入る。
毛織物産業と金融業で富を集めたフィレンツェは、周辺地域の中心になった。
メディチ家は、黄金期のフィレンツェで最も上手く立ち回り、4代に渡り秘かな統治者として栄華を極めた。
メディチ家とは一体何者だったのか?
「メディチ」は医者を表す言葉と云われ、元々は薬屋か医師だったのではないかと推測されている。
メディチ家の古い紋章が、赤い丸薬、或いは治療に使われた血を吸いだす玉のようだった事と、銀行業(両替商)を始める前は、毛織物染色に使用される薬剤・ミョウバンを扱っていたことがその理由とされている。
メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが当主の頃にフィレンツェで銀行業を始めて大成功し、ローマやヴェネチェアへ支店を増やし、ローマ教皇庁の財務管理まで任せられるようになった。
ジョヴァンニの息子・コジモは、政治の表舞台に立たず、公共事業に私財を使った。
その一方で公職選挙制度を細工して、自分を支持する勢力を優位に立たせた。
コジモ時代、銀行業はイタリアのみならず、イキリス・フランス・スイス・ベルギーまで広がった。
コジモの孫・ロレンツォは、ミケランジェロに代表される多くの芸術家を援助した。
彼はイタリア国内の利害対立を収める政治を行い、庶民に惜しみなく物品を与え、その振る舞いからか「偉大なるロレンツォ」と称えられた。
しかし彼はメディチ銀行倒産を回避するため、共和国公金に手を出した。
共和制の恩恵を得て台頭したメディチ家はフィレンツェの繁栄に貢献したが、次第に役割を変えていったのである。
フィレンツェ共和国の繁栄の秘密とは?
14世紀初め、ヨーロッパで一番裕福な都市としてフィレンツェの名が上がった。
なぜフィレンツェは、これ程お金持ち都市に成れたのだろうか?
理由は、2つの経済力に支えられたからだった。
1. 300の工場が高級毛織物を生産し、多くの国へ輸出していた
2. 十字軍遠征(聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪い返す戦い)の費用を貸し付けた
1は、12世紀から始まり、労働者3万人を雇えた毛織物組合があったという。
アルノ川流域に毛織物工場が立ち並び、東方貿易(東地中海岸国との遠隔交易)で仕入た羊毛を毛糸に粒ぎ、織りから染色製品仕上げまで行い、高級製品を東地中海岸国やヨーロッパ(スペインや神聖ローマ帝国宮廷、バルト海に至るまで)に供給した。
毛織物産業で儲けた利益は銀行に預けられ、或いは生機(きばた、加工処置前の織り上がりを指す)を大量に買い付け、高級品に仕上げて売り出していた。
2は、1と連動して発展した。
毛織物産業が産む利益の多くが、金融業に流れ込む。
十字軍に参加した貴族階級は、潤沢な資金を持つフィレンツェの銀行に借入を申し込んだ。
1260年後半からは、フランス王国やイングランド王国の国王や領主へもお金を貸している。
毛織物産業と金融業の成功は、フィレンツェ共和国発行「フローリン金貨」を当時最上級の値打ちに押し上げたのである。
終わりに
フィレンツェ共和国はヨーロッパ一の裕福さを誇った半面、濃い影も存在する。
1378年、労働者による「チョンピの乱」が起きた。
因みにチョンピとは、梳毛工(そもうこう、羊毛を揃えて毛糸にする職人)の差別語である。
発端は、政治に参加できない貧しい労働者たちの経済的不満である。
政権を掌握した一族に反対する有力者達がこの反乱に賛成した事で、工ミケーレ・ディ・ランドという梳毛工がフィレンツェの行政長官に選ばれた。
新たに梳毛工も商工業組合として認められ政治参加が可能になったのだが、1382年、反対派に政権は再び奪われ、政治から梳毛工組合は除外された。
熟練職人の下で安い賃金で働き、最も長時間労働を強いられる梳毛工達の不満は解消されない。
彼らは、熟練した能力を持たず貧しいという理由で政治参加を許されなかった。
底辺で毛織物産業を支える梳毛工達の犠牲により、フィレンツェの富は蓄積されたのではないだろうか。
参考図書 :
ケンブリッジ版世界各国史「イタリアの歴史」
一冊でわかるイタリア史
フィレンツェというと、芸術や金細工のイメージが強かったのですが、中世では毛織物で栄えていたんですね。
毛織物で得た利益を製造面だけでなく、金融業に回して儲ける…お金を上手く回して増やしてフィレンツェは栄えていったんですね。