はじめに
15世紀に始まった大航海時代にヨーロッパ諸国はアフリカ原住民である「黒人」を貴重な労働力として捕縛し、奴隷とすると商品として各国に輸出していました。
また、中国や日本などにも進出するとアジアの現地人を奴隷として扱っていたのも有名な話です。
しかし、一方でヨーロッパに住む人々、所謂「白人」たちも奴隷として扱われていた事実はあまり知られていません。
今回は白人奴隷貿易とそれに関わったイスラム圏のアラブ奴隷商人たち、そして大いに恐れらた海賊集団についてご紹介いたします。
イスラム教の奴隷貿易
ヨーロッパの奴隷貿易は大航海時代の幕開けと共に盛んに行われるようになるのですが、アラブ人たちが住むイスラム圏では奴隷貿易は既に7世紀中ごろから行われていました。
このころイスラム教の予言者と言われるムハンマドが台頭し、彼は奴隷を所持することを許しますが、奴隷の取り扱いや福祉に規定を設けており、一方で奴隷を解放することは善行であるとしていました。
他にも単なる略奪行為による奴隷の獲得は禁止するなど、ある程度奴隷制度に配慮していたようです。
しかし、時代の流れと共にその教えも次第に変化するようになっていき、異教徒に対してのジハードであるならば、奴隷を獲ることも止む無しと考えるようになっていきます。
また、イスラム勢力がアフリカ大陸に進出してくると、彼らは現地のアフリカ人たちを奴隷とし扱うようになり、アラブ商人たちによって商品として扱われることとなります。
このアラブ商人による奴隷貿易は凄まじく、7世紀〜20世紀初めまでの間に1000万から1800万人近くのアフリカ人がアラブ人商人によって奴隷にされ、紅海やインド洋、サハラ砂漠を越えて各地に運ばれたと言われています。
その後、アラブ人たちはナイル川を越えてエジプト周辺に侵略を開始すると、東洋西洋問わず様々な人種を奴隷として扱うようになります。
オスマン帝国と白人奴隷
アラブ圏内での奴隷制度はそのまま中世へと持ち込まれ、13世紀初頭にオスマン帝国というイスラム王朝最大の帝国が出現します。
オスマン帝国は17世紀には中東西欧に勢力を拡大し、地中海世界の大半を治める大帝国へと発展します。
オスマン帝国は後宮で有名な「ハレム(ハーレム)」を設けるのですが、そこでは美貌に優れた多くの白人系女性が奴隷として仕えていました。
これらの女性はまず奴隷として連行されると最初に歯並びをチェックされました。これは歯並びを見ることで栄養状態を確認することが出来たからです。
その後、処女であるかなどの身体的特徴をチェックされるのですが、やはり純潔であった女性は人気が高く、その取引価格は2階建ての家が建てられるほどだったと言います。
ハレムでの生活は自由もなく、ほとんど性欲処理として扱われ、性的な虐待を受けることも少なくなかったのですが、一部の女性は皇帝であるスルターンのお気に入りとなり、裕福な生活を送った者もいるそうです。
バルバリア海賊団
さて、そんなオスマン帝国などのイスラム圏に多大な奴隷を供給していた悪名高い海賊が「バルバリア海賊団」です。
この海賊はもともとは8世紀ごろ北アフリカの地中海沿岸地域に住んでいたベルベル人がイスラムの支配を受けて発足した集団です。
彼らの海賊行為は地中海一帯から北大西洋まで及び、海岸近くの村を襲い略奪を行いました。またその略奪の主目的は北アフリカや中東でのイスラム市場に送るキリスト教徒奴隷を捕まえることだったのです。
15世紀から16世紀に移り変わるころ、バルバロス・ハイレッディンとバルバロス・オルチの通称「バルバロッサ兄弟」が海賊団のリーダーとなると略奪行為は増々勢いを増していきます。
さらにバルバロッサ兄弟はオスマン帝国より提督に命じられたため、オスマン帝国公認の海賊となります。1538年のプレヴェザの戦いではスペインと制海権を争いこれを撃破し、地中海での地位を不動のものとします。
17世紀になるとバルバリア海賊団はスペインと敵対関係にあるオランダと協力関係を結び、オランダの最新式帆走用艤装を導入。大西洋まで勢力を拡大させます。
1627年にアイスランドが襲撃を受け400人が捕虜となり、242人が奴隷として売り飛ばされました。役に立たない老人は協会に集められ火を点けられ皆殺しにされたそうです。そして1631年にはアイルランドが略奪の被害に遭い、以下のように記述されています。
海賊たちはコーク県ボルティモアにある海岸沿いの小さな村を襲った。村人のほとんど全員は捕らえられ、北アフリカの奴隷にするために連れ去られた。その捕虜たちは様々な運命に振り分けられた。ある者はガレー船の奴隷としてオールに鎖で繋がれたままとなり、ある者はハーレムの芳香漂う隔離された部屋、あるいはスルターンの王宮の壁内で長年を過ごした。彼らのうち2人のみが再度アイルランドを見ることができた。
バルバリア海賊団はトリポリ、チュニジア、アルジェ(アルジェリア)の三ヵ国、通称バーバリ諸島を拠点としていたのですが、アルジェだけでも2万近くが幽閉されていたそうです。その多くが地中海に住むヨーロッパ系白人であったと言います。
ヨーロッパ諸国はバルバリア海賊団に手を焼きますが、この時のヨーロッパは各国が戦争状態であったため、バルバリア海賊団を取り締まることは出来なかったのです。
むしろヨーロッパ各国は敵対関係にある国に対し、お互い海賊行為を奨励する有様だったので、海賊たちは各国で増加するほどでした。
奴隷たちの暮らし
バルバリア海賊団らアラブ人に連行されたヨーロッパ奴隷は100万~120万人近く存在したと言います。
捕まった奴隷たちはバーバリ諸島やザンジバル島の奴隷市場に連行されるのですが、その旅は悪夢の始まりに過ぎず、ほとんどが病気や、食料・水の不足のために船中で亡くなりました。また奴隷市場に辿り着くと、以下のように取り扱われたそうです。
この旅を生き残った者達は、奴隷競売に向かう道で街中を歩かされ見世物になった。その後は朝の8時から昼の2時まで立ちっぱなしとなり、その間に買い手が横を通って吟味し始めた。次が競売であり、町民が買いたいと思う奴隷を競ることになった。それが一巡するとアルジェのデイが競り落とされ、欲しいと思う価格の奴隷を購入するチャンスがあった。この競売の間、奴隷たちは走ったり飛んだりしてその強さとスタミナを示す必要があった。買われた奴隷は激しい肉体労働から家事(多くは女性奴隷に割り付けられた)まで様々な仕事に使われた。夜には「バグニオ」と呼ばれた監獄に押し込められ、その中は暑く過密だった。
またヨーロッパにおける黒人奴隷は労働力の確保のため、ほとんどが男性であったのですが、アラブ人による奴隷は3分の2以上が女性で占められていたと言います。これは上述した通り女性の方がハレムなどにおいて高い値段で取引されたからです。
以下は19世紀のザンジバルで女性奴隷を見た際の記述です。
「ショー」は午後4時に開始した。最高に優位な状態で始めるため、奴隷たちの皮膚は清められココナッツ油で磨き上げられ、顔には赤と白の線が描かれ、手や鼻や耳や足は多く金銀や宝石の輪で飾り立てられている。彼らは、最も年の若いものから始まり次第に大きさと年齢が増えるに従い後ろとなる列に並んだ。(~中略~)最初に口と歯を調べ、その次に 体のあらゆる部位を順に点検した。少女の胸なども例外ではない。私は公共市場において買い手によって多くの少女が最も無作法な方法で 取り扱われるのを見た。まさにそこには、奴隷業者はほぼ普遍的に若い少女が処分される前に彼らの色欲に従うよう強要すると 信じるに足るあらゆる理由がある。こんな光景から人は慈悲と憤怒をもって目を背ける。
他にもガレー船の漕ぎ手として使役される奴隷もいたのですが、これが一番劣悪な環境であったらしく、これら奴隷は滅多にガレー船を離れることが出来ず、何年もそこで生活しました。
漕ぎ手は座っている時に足枷と鎖を付けられ、動くことが許されず、睡眠、食事、大小の排便は座ったまま行いました。監督者が船の間を行き来し、一生懸命に働いていないと思われる奴隷は笞で叩きつけられ、力尽きるとその場で海に捨てられたそうです。
ヨーロッパの台頭と海賊の衰退
地中海から大西洋一帯で猛威を奮うバルバリア海賊団でしたが、19世紀になると次第にその勢いも陰りが出始めます。
このころヨーロッパ諸国はナポレオン戦争を経て、ウィーン会議を開いた際にバルバリア海賊団の行動を完全に終わらせる必要性について共通認識を抱いていました。
1816年にはキリスト教徒の奴隷化を止めさせるべく、イギリスとオランダの艦隊がバーバリ諸島のアルジェに攻撃を開始。これによりバルバリア海賊団に一定のダメージを与えることに成功します。
その後、1820年にイギリス艦隊は再びアルジェを攻撃し、1830年のフランスによるアルジェリアの占領をもってバルバリア海賊団は完全に活動を停止します。
一方、海賊団の最大の支援者であったオスマン帝国もかつての勢いを失いつつありました。フランス革命によるナショナリズムの高まりはバルカン半島のキリスト教徒を独立に走らせたため、オスマン帝国は領土を多く失い20世紀には「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれるほど凋落してしまいます。
こうして奴隷貿易にて利益を得ていたアラブ国家の衰退と共に、奴隷貿易は中止する方向へと舵を切るのですが、今度は台頭してきたヨーロッパ諸国が「植民地」という新たな支配制度を確立すべく、世界各地へと進出することとなるのでした。
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