ローマのコロセウムは、暴君ネロの黄金宮跡に建設され、その壮大な構造の一部は現在でも目にすることができます。
かつてコロセウムでは、流血を伴う見世物が行われ、当時の民衆を熱狂させました。
しかし、この舞台に観客としてではなく、自ら剣闘士として立った皇帝がいました。
ローマ帝国黄金期の終焉を示すかのように現れた、第17代ローマ皇帝コンモドゥスです。
今回は、「剣闘皇帝」とも称された彼の生涯を紐解いてみました。
期待の若き皇帝が暗転、衝撃の暗殺劇
161年、哲人皇帝と名高い父マルクス・アウレリウスを父として産まれたコンモドゥスは、若干18歳で即位しました。
その血筋の良さと美しい容姿から、市民からは絶大な人気を博していましたが、即位後間もなく、その期待を大きく裏切ることとなります。
当初こそ側近と協力して統治を行っていたものの、腐敗した周囲の貴族たちに毒され、次第に政治を顧みず、女性や酒に溺れる放逸な生活を送るようになったのです。
そんなコンモドゥスに失望した周囲の人々は、彼の失脚を企て、その後何度も彼の命を狙うようになりました。
最初の暗殺計画は182年頃のことでした。劇場を訪れたコンモドゥスに刺客が送り込まれたのです。この時は、刺客が取り押さえられたため、皇帝は一命を取り留めましたが、首謀者を知り、コンモドゥスはショックを受けます。
暗殺を企てたのは、なんと実姉のルキラだったのです。
実行犯は直ちに処刑され、その他皇帝が疑わしいと感じた者は罪の有無に関わらず粛清されましたが、姉ルキラは流刑にとどまりました。
しかし、コンモドゥスの心の動揺は激しく、人を信じられなくなった彼は、公に姿を現すことを避けるようになります。
そして一切を近衛隊長官ペレンニスを通すように命じ、自身は再び放蕩生活を送るようになったのです。
人間不信の皇帝
そんな折、スコットランドの諸部族が現在のイギリス北部に築かれた「ハドリアヌスの長城」を乗り越え、属州ブリタニアへの侵入を開始します。
184年には侵入の掃討に成功しますが、今度は賜金をもらえない事に怒りを爆発させたローマ軍兵士が暴動を起こし、実権を握るペレンニスに反旗を翻しました。
兵士たちはローマに押しかけると、「ペレンニスは、皇帝を殺し自分の息子を帝位につけようとしている」とコンモドゥスに申し立てました。(本当にペレンニスが謀反を企んでいたのかは諸説あり。兵たちに好かれていなかったことは事実)
人間不信に陥っていたコンモドゥスは、すぐさまペレンニスを兵士たちに引き渡し、彼をなぶり殺しにさせました。
次に重用されたのは、奴隷出身の侍従クレアンデルでした。
彼はコンモドゥスの寵愛を受け近衛長官まで引き上げられましたが、裏では権力をかさに着て、高い賄賂で騎士や議員に官職を売りつけるような人物でした。
その後、伝染病が蔓延すると、民衆の不満が今度はクレアンデルに向けて爆発します。
収まらない暴動に恐れをなした皇帝は、ただちにクレアンデルを逮捕・処刑しました。
妄想にとりつかれる皇帝
こうして仕方なしに自身で親政を始めたコンモドゥスでしたが、相次ぐ死の恐怖と人間不信からか、次第に誇大妄想の兆候を示し始めます。
元老院には、自らをゼウス神の息子である「ヘラクレス」と呼ぶよう命じ、公の場に出る時は皇帝としてのトーガ(外衣)ではなく、ヘラクレスの象徴である毛皮をまとい、こん棒を手にして現れる有り様でした。
そして彼の異常性は、さらに拍車がかかります。
コンモドゥス帝は、当時のローマ人の楽しみであった流血の見世物、コロセウムでの剣闘士試合に、皇帝自ら出場するようになったのです。
剣闘士試合は、初期の頃こそ死の儀式の一種でしたが、次第にそれが人々の気晴らしとなり人気を博すようになりました。
そしてそれに目をつけた皇帝たちは、かつては死者に捧げられたこの闘いを、皇帝に捧げられるものとして自らの宣伝材料とし、必要な剣闘士を育成するための養成所も創設されていました。
剣闘士には、大抵殺人などを犯した死刑囚があてがわれましたが、数が足りなくなると軽微な罪を犯した者にまで死刑を宣告し、数の補充が行われていました。中には奴隷を剣闘士にさせ、コロセウムに送ることで儲ける貴族までいました。
剣闘士は民衆の人気こそ高かったものの、あくまで身卑しい身分の存在だったのです。
ここに皇帝自らが立つというのですから、その状況は当時であっても異常だったのです。
皇帝は正気か狂気か
189年にコロセウムで行われた野獣狩りを皮切りに、コンモドゥス帝はことあるごとに闘技試合に出場します。
そのたびに彼は大勢の観衆の前で弓矢や槍を用いて、獣や戦士を殺して見せました。そして闘技試合に際しては市民に多大な賜金を与える一方で、国庫が資金不足に陥ると富裕層を処刑しては財産を没収し、赤字補填に充てるという無軌道ぶりを繰り返したのです。
192年、コンモドゥス帝は「平民祭」に参加します。
そこでは王冠を被り、金を散らした紫のマント姿で登場し、半日で多くの数の熊やライオンを仕留めたとされています。
しかし、このような皇帝の振る舞いに、民衆たちは「この凶暴さが、いつか自分たちに向けられるのではないか?」と恐れ、次第にコロセウムに入らなくなっていきました。
一方で、同じく恐怖にかられるも臨席を拒否できない元老院議員や騎士たちは、恐る恐る観戦を続けざるを得ませんでした。
実際にある時、皇帝は観衆が見守る中で数々の猛獣を殺戮した後、自ら殺した血の滴るダチョウの首を持ち、議員席に近づいたのです。
「逆らえば、お前たちもこうなるぞ」と暗に誇示する皇帝に、議員らは戦慄するばかりでした。
剣闘皇帝の最期
「このままでは、我々の命も危ない」と考えた側近たちは、再び皇帝の暗殺計画を実行します。
首謀者は、この時の近衛長官ラエトゥス、侍従エクレクトゥス、そして皇帝の愛妾マルキアでした。
そして192年の大晦日、夕食の席で、マルキアはコンモドゥスのワインに致死量の毒を盛りました。
しかし皇帝は解毒剤を常用していたため、この時は吐き気をもよおしただけでした。
計画の頓挫に首謀者たちは慌てふためきますが、即座に次の刺客を送り込みます。
屈強な護衛であったナルキッソスという男に、入浴中のコンモドゥスを襲撃させたのです。
腕の立つコンモドゥスでしたが、ついに抵抗空しく絞殺されてしまいました。享年31。
元老院からも憎まれていた彼は、公式の記録からも抹消され、その存在は後にローマ帝国における黄金期の終わりを示すことになったのです。
参考文献:『ヨーロッパ三都物語 ローマ・パリ・ウィーン歴史秘話』新人物往来社
この記事へのコメントはありません。