幼少時代
マリンチェとは、15世紀末頃に現・コアツァコアルコス地方(メキシコ合衆国ベラクルス州最東部)のパイナラ、あるいはオルートラで生まれた先住民女性(インディオ女性)である。
マリンチェはアステカ王国の都・テノチティトランからコアツァコアルコス地方に派遣された首長の家系の出とされている。
彼女が幼い頃に父親が死去すると、その後母親は再婚して男の子を出産した。
そのためマリンチェは邪魔な存在になり、東隣りのタバスコ地方の商人に奴隷として売り渡されたという。
そこはマヤの文化圏であったため、彼女が話していたナワトル語と、さらにマヤ語も話せるようになった。
スペインの征服者
1519年3月、スペイン人征服者・エルナン・コルテスの率いる遠征隊が、キューバを出発し西方に向かい、ユカタン半島を過ぎて現・タバスコ地方の海岸に到達した。
その時、この地方の土着の首長の1人が、コルテスに多くの贈物を差し出した。その中には20人の若い娘達も含まれており、マリンチェはその1人であった。娘達はカトリック教の洗礼が授けられ、マリンチェも「マリーナ」と名付けられた。
コルテスの遠征隊にはヘロニモ・デ・アギラールという、8年程前に難破してマヤ人の部落に住み着いていた者が加わっていた。アギラールはマヤ語を習熟していたため、コルテスにとって彼は通訳として欠かせない存在であった。
しかしタバスコ地方を過ぎ西方に進み、現・ベラクルス方面に向かうと、そこではマヤ系の言語は話されていなかった。アステカ王国の支配下ではナワトル語が話されていたため、ナワトル語が話せるマリンチェが通訳の役割を担うことになったのである。
こうしてマリンチェとアギラールの存在により、現地の住民やアステカ王の派遣した役人との間で意思疎通が出来たのだった。マリンチェはすぐにスペイン語も話せるようになっていったという。
マリンチェはコルテスの通訳、助言者として、さらには愛人として行動を共にすることになる。
ベラクルス上陸
コルテスの遠征隊はその後、現・ベラクルスに上陸した。そしてベラクルス市の建設に着手しながら周辺地域の偵察を行った。
北方にある現・センポアラの町に住むトトナカ人がアステカの徴税吏に悩まされていることを知ると、コルテスはトトナカ人をスペイン軍の味方につけることに成功した。
ところでコルテスはキューバを出発する際、上司のベラスケスと一悶着起こしており、遠征隊の中のベラスケス派の兵士はコルテスの意向に逆らう気配を見せていた。そのような兵士の逃亡を防ぐためにコルテスはなんと船を沈めたのだった。
こうして背水の陣をしいたスペイン軍はベラクルスに守備隊を残し、1519年8月に西方の高原に向けて出発した。
途中の町々では通訳を務めるマリンチェとアギラールを通して、カトリックの聖なる信仰をはじめ、いろいろなことを住民に説き聞かせた。そしてさらに援軍を得るために現・トラスカラ市に立ち寄った。
トラスカラ市では、アステカ人と対立していたトラスカラ人と何回かの戦闘を交えた後に、彼らと同盟を結ぶことに成功した。
この時の戦いの際のマリンチェの様子は「四方を敵に囲まれ、味方の兵士が負傷して倒れている状況であっても決して弱気な様子は見られず、その勇気は女性とは思えない程だった」という。
この頃、コルテスは住民から「マリンチェ」と呼ばれた。なぜなら通訳のマリンチェが使者や首長との話し合いの時に、いつもコルテスの脇にいて彼の言葉を伝えていたため、コルテスは「マリーナの隊長(カヒタン)」と呼ばれ、これが縮まって「マリンチェ」となったという。
チョルーラの虐殺
スペイン軍は次に南隣りのチョルーラに向かった。チョルーラ人はアステカ人と同盟関係にあり、トラスカラ人とは敵対していた。
そのような状況の中である日、チョルーラ人の部隊長の妻の老婆がマリンチェの所に忍んできた。なんとチョルーラ人がスペイン軍に対して反乱を目論んでいるという。そしてマリンチェに「助かりたいのなら自分の家に一緒に来るように」と促したのだった。
この老婆の動機は極めて打算的で、老婆はマリンチェが若く美しく、財力があることを知っていた。さらに「自分の息子の嫁にしてあげる」とも伝えたという。
マリンチェは老婆に感謝を伝え「夜が明けるまでに逃げ出します」と約束したが、なんとすぐにコルテスに老婆の話を報告したのだった。実はコルテスは他の筋からも反乱の話を聞いており、この事で確信を持った。
翌朝、スペイン軍はアステカ王国の都に向け出発すると称して、町の広場にチョルーラの首長達などを呼び寄せた。その後、広場周辺に潜んでいたスペイン人兵士達がチョルーラ人に襲いかかった。矢と銃弾を浴びせ、さらには大砲を放った。
なんと数千人の人々が殺されたという。
一方で、コルテスのマリンチェに対する信頼性、重要性は一層増したのだった。
神再来の疑い
この頃、アステカ勢力下のセンポアラの町の人々は、スペイン人達のことを昔からの伝承で語られている「ケツァルコアトル神」の再来ではないかと考え始めていた。
この神はこの地に文明をもたらした白い肌を持つ神で、人間の生贄を好まなかった神でもある。
かつて対立する神官との争いに敗れ、「一の葦」の年(西暦1519年)の日に戻って来ると告げて東方の海へ去っていった、という伝説があった。
コルテスがベラクルス沖に現れたのは、偶然にも1519年であった。またアステカの生贄と食人の文化から、アステカ王・モテクスーマ2世は使者に命じて、生贄の血に浸された食物をスペイン人のために用意させたが、スペイン人は吐き気を覚えて一切食べなかった。
この報告を受けた王は「コルテスはやはり、人身供犠に反対したケツァルコアトルの再来ではないか」と思ってしまったのである。
このアステカの宿命論的な世界観が災いし、王はコルテス達を都・テノチティトランに迎え入れてしまったのだった。
モテクスーマ2世の死
スペイン軍兵士達は、王から贈られた多くの財宝によって貪欲心をかきたてられ、この国を早く奪おうと勇んでいた。そしてコルテスは強引に王を説得して、自分達の宿舎である宮殿に軟禁した。
マリンチェも王に対して「粗末に扱われるようなことは決してない」などと伝えて諭したのである。
コルテス達が最も関心を持っていたのは黄金で、王に金の採れる鉱山や川について尋ねたり、各地から黄金を集めるように指令を出させたりした。この時にスペイン人が入手した黄金は、現在の価値で30億円以上だったという。
アステカ人たちは、物欲に取り憑かれたスペイン人を見て反感を募らせていった。コルテスをケツァルコアトルと見なすアステカ人は、もはや少数になっていた。
この時、コルテスの上司でありキューバの総督だったベラスケスは、コルテスを討伐するためにナルバエスという隊長が率いる遠征隊をベラクルスに送った。このことを知ったコルテスは、首都・テノチティトランのことは部下のアルバラードに任せてベラクルスに赴いた。
コルテスは雨の中での急襲などでナルバエス隊を切り崩し、兵の大半をコルテス側に編入させた。
しかしこの間に、首都でアステカの祭礼を見物していたアルバラードたちがアステカ人に突然斬りかかり、多くの先住民を殺傷したのだった。この報告を受け、コルテスは再び首都・テノチティトランに向かった。
テノチティトランに戻ると、モテクスーマ2世の弟・クイトラワクが指揮するアステカ軍との戦闘が激化していた。そこでコルテスはモテクスーマ2世に、アステカ軍の攻撃を止めるように頼むことにした。
王は建物の屋上から休戦を呼びかけたが攻撃を止めることは出来なかった。さらにその際に受けた攻撃が致命傷となり、2日後に死去してしまったのである。
王が亡くなったことでアステカ軍の怒りは頂点に達し、スペイン軍をさらに激しく攻撃した。
猛攻に耐えられなくなったスペイン軍は1520年6月30日の夜、西方のタクーバへ向けてテノチティトラン脱出を図った。しかしアステカ軍に気付かれ追撃を受けた。
この時、多くのスペイン軍兵士は黄金の入った重い荷物を運んでいたため、機敏に動けず命を落とす人々が続出したという。
この出来事は「悲しき夜」として知られることになった。
都の陥落
その後、スペイン軍はトラスカラで休息をとりながら首都攻略の戦術を練った。
その間に首都・テノチティトランでは、ナルバエスの遠征隊によって持ち込まれた天然痘によって、免疫の無い先住民達が次々と犠牲になっていた。
天然痘はその後2ヶ月間猛威をふるい、新王となったクイトラワクも死去してしまった。その後はモテクスーマ2世の従弟・クアウテモクが新王になった。
1521年4月28日、スペイン軍は首都・テノチティトラン攻略を開始し、8月13日、脱出しようとしていたクアウテモク王を捕らえた。
クアウテモク王はコルテスの前に引き出され、黄金のありかを聞き出すために拷問され、ついには遠征先で殺されてしまった。
こうしてアステカ帝国は滅亡したのである。
1524年10月、コルテスはホンジュラス地方で黄金が沢山採れるという情報をつかんで遠征を行った。
この時すでにマリンチェはコルテスの子を産んでいたが、現・ベラクルス州のオリサバ近くの小さな村で、遠征隊の一員だったフアン・ハラミーリョと正式に結婚させられた。コルテスの回想録では子の事に触れておらず、マリンチェに関しては「通訳」と記されているだけである。
その後、一行はマリンチェの故郷・コアツァコアルコスに到着し、地域の首長達を集めて神の聖なる教えを説いた。この時、マリンチェの母親と異父弟が呼び出された。
2人は「自分達が呼び出されたのは殺されるためだ」と泣いていたが、マリンチェは2人を優しく慰めた。
そして
「私は神の恵みによって今ではキリストの教えに従う者となり、コルテスとの間に子供を儲け、今はハラミーリョという立派な夫がいる」
と、現在の境遇に満足していることを伝えたという。
その後、マリンチェは夫とスペインに渡り、その地で死去したと伝えられている。
最後に
征服される前のアステカ帝国の人口はおよそ1100万人であったと推測されているが、1600年の人口調査では先住民の人口は100万人程度だったという。
マリンチェは侵略者であるスペイン人に協力し、自分達の文明と社会の破壊を行った者として、メキシコでは「裏切り者」の代名詞とされている。
近年ではフェミニズムの観点から、彼女に対する同情的な意見も増えてきているという。
マリンチェは奴隷として売られた幼少の頃から、自分の置かれた状況の中で懸命に生き続けた女性とも思える。
参考文献 ラテンアメリカの女性群像 その生の軌跡 (行路社)
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