イラク軍による突然の侵攻
サダム・フセインによる「クウェート侵攻」は、中東だけでなく世界史においても重大な出来事です。
1990年8月2日、イラク軍は10万人の兵士と大戦車部隊を率いてクウェートに侵攻。わずか6時間で首都クウェート・シティを含むクウェート全域を占領しました。
クウェート陸軍の抵抗は僅かで、空軍はサウジアラビアへ逃亡しています。
人口は約180万と小さいながら、石油資源に恵まれたクウェート。サバハ家によって統治されていましたが、イラク軍がクウェートに接近する前に、ジャービル国王らはサウジアラビアへ亡命しています。
イラクはクウェートを自国に「併合」し、バスラ州の一部と宣言しました。
イラクによるクウェート侵攻は、当時の国際社会に大きな衝撃を与え、また1991年の「湾岸戦争」勃発へと繋がるきっけけにもなりました。
今回の記事では、湾岸戦争にいたるまでの歴史的過程について、なるべく分かりやすく解説したいと思います。
イラクとクウェートの歴史的な関係
イラクのクウェート侵攻は、長年に及ぶ領土主張に基づくものでした。
19世紀のイラクとクウェート一帯は、オスマン帝国の一部でした。
しかし1913年、イギリスが中東に介入したことで、クウェートがオスマン帝国から分離され、のちに植民地となりました。
第一次世界大戦後、イラクもイギリスの支配下に入りましたが、1932年に独立を果たします。イラクはクウェートを自国の領土だと主張し続け、1961年にはイラクのカセム大統領が「クウェートはイラクの一部である」と宣言したのです。
同年イギリスはクウェートの独立を認め、二つの独立国家が成立しています。
サダム・フセインの野望
1979年、サダム・フセインがイラクの大統領に就任。彼の野望は中東の軍事バランスを変えることでした。
「イラクを古代の新バビロニア帝国のような強大な国にしたい」とフセインは願い、1980年9月にイランへ攻撃を仕掛けます。
「イラン・イラク戦争」です。
当時のイランは1979年の革命(イラン革命)で混乱しており、イラクは攻撃のチャンスと見たのです。
戦争は双方に決定的な勝利をもたらすことなく長引き、1988年8月に終結します。
フセインは「ペルシャ民族のイランと戦い、アラブ民族を守った」と自負しました。しかしながら、他のアラブ諸国、その中でも隣国クウェートから十分な支援が得られなかったことに不満を抱いたのです。
クウェートに侵攻すれば…
地政学的な視点で見ると、イラクはペルシャ湾へのアクセスが限られています。
クウェートを手に入れることで「その港湾施設を利用して石油輸出を容易にできる」と、フセインは目論んだのです。
さらに加えてクウェートの豊富な石油資源は、戦争で疲弊したイラク経済にとって魅力的でした。
クウェートを併合することで、フセインはイランとの戦争で膨らんだ900億ドルの借金返済が可能になると考えました。
こうした背景が「クウェート侵攻」へと繋がったのです。
イラクはなぜ巨大な軍事力を持てたのか?
サダム・フセインの指導下でイラクは、イランに匹敵し、クウェートを侵攻するだけの強力な軍事力を持っていました。
この軍事力の背後には、東西冷戦時代で実行された国際的な支援がありました。
第二次世界大戦後、世界はアメリカとソ連を中心とした「陣取り合戦」の時代に入ります。中東はその戦略的重要性から、東西両陣営にとって影響力を行使したい地域でした。
その中でも、イラクとイランは中東地域の大国です。
イランは「1979年の革命(イラン革命)」が起こるまで、パーレビ国王の下でアメリカの支援を受けながら近代化を進めていました。
対するソ連はアメリカに対抗して、イランの隣国であるイラクに軍事的援助を提供しています。イラク軍はソ連製の武器を装備し、軍事顧問団の指導を受けて強化されていきました。
東西冷戦期、中東では「イラン=アメリカ イラク=ソ連」という国際関係の色分けが成立していたのです。
しかしイラン国内では、パーレビ国王による急速な近代化政策が社会的な混乱を引き起こし、貧富の差が拡大していました。
国民の不満が高まる中、イスラム教の原理主義者であるホメイニ師がイラン革命を主導。アメリカを「大悪魔」と非難し、最終的に革命を成功させて政権を掌握します。
このイラン革命によりイランはアメリカとの関係を断絶し、西洋的な近代化を捨てた新たな政治路線を取ることになりました。
イラン革命後、アメリカはイスラム原理主義の拡散を防ぐため、以前はソ連の影響下にあったイラクにも支援を開始します。
アメリカから支援を受け、調子に乗ったイラクのサダム・フセインが「イラン・イラク戦争(1980年)」を起こしたことは上記で説明しました。
アメリカだけじゃない
湾岸戦争のときには、フランスを含む西側諸国もイラクを支援していた事実が判明しています。
イラク空軍がフランス製のミラージュ戦闘機を保有していたからです。自国の戦闘機が混在する中での軍事作戦によって、敵味方の誤認が発生することを懸念したため、フランスは最初の空爆に参加しませんでした。
このあと多国籍軍が制空権を確保し、イラク空軍の戦闘機が活動を停止したことが確認されると、フランス空軍も空爆に参加しています。
東西冷戦期において、イラク軍がどこの国から軍事支援を受けていたのかを如実に示すエピソードです。
冷戦終結に伴うクウェート侵攻
イラクによるクウェート侵攻は、東西冷戦という長年にわたる国際秩序の「終わり」を象徴する出来事でした。
第二次世界大戦後、世界はアメリカ主導の西側諸国と、ソ連主導の東側諸国の対立によって形成される「冷戦」状態にありました。しかしソ連のゴルバチョフによる改革政策で、東西冷戦は終結に向けて動き出すことになります。
この国際的な秩序の「変動期」に、サダム・フセインはクウェート侵攻を決断したのです。「冷戦の終結によって、従来のようなアメリカやソ連からの直接的な介入や制裁を受ける可能性が低い」と、フセインは計算します。
「冷戦の終わりによって中東への関心が薄れている、今がチャンス」と判断し、クウェート侵攻を実行したのです。
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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