「祟り神」と聞いて、どんな印象を受けるだろうか。名前の意味からイメージするのであれば、“祟りをなす怖い神様”といったところだろうか。確かにそれは間違いではないのだが、正解でもない。意外と知られていない、祟り神の正体について迫ってみた。
祟り神は強い守護神
祟り神とは、名前の通り、人々に災厄(=祟り)をもたらす神のことである。粗末に扱えば、恐ろしい祟りをなす。
しかし、手厚く祀れば、逆に心強い守護神になるとされる。ご利益を得るも、災厄を受けるも、全ては信仰次第である。
なお、このような神は、日本の神道(アニミズム)特有のもので、外国の宗教には存在しない。
古来から日本人は、天災が起こったり厄病が流行ったりした時に、それらが非業の死を遂げた人間の怨霊によって起こされていると信じていた。そのため、怨霊を神として手厚く祀ることで、災厄を防ごうとした。現在も、祟り神を祀る神社は全国に多数存在する。
有名な祟り神
平将門
平将門は、平安時代の武将である。数々の戦いを経て、一時は朝廷を敵に回して「新皇」を自称していたが、即位後わずか2ヶ月で討伐された。
討ち取られた将門の首は京都の七条河原に晒されたが、その首が光りながら現在の東京都千代田区大手町などに飛んできたという伝説があり、その地は長年、将門の祟りに苦しめられたという。現在大手町にあるのが、最も有名な「将門の首塚」であるが、関東大震災で首塚が損壊した後に、様々な祟りが起こった。特に、大蔵省仮庁舎を建てようとした際に関係者の不審死が相次いだという事件が有名である。また、GHQがこの地を駐車場にしようとした際、ブルドーザーがひっくり返り、死者が出ている。その他にも祟りと思しき出来事がいくつも起こっている。
国の政府やGHQですら忌避した将門の祟り、それは相当強いものだったようだ。
菅原道真
菅原道真は平安時代の貴族で、学者であり政治家である。幼い頃から学問の才能を発揮し、神童と称された。
右大臣という地位まで上り詰めたが、左大臣による政略によって大宰府へと左遷され、わずか2年後にその地で病死した。
道真の死後、都で異変が次々と起こり始めた。
疫病の流行、貴族の死、大火、天変地異などである。人々はこれを、道真の祟りであると噂した。
崇徳天皇
崇徳天皇は、保安4年に即位した第75代天皇である。系譜上は鳥羽天皇の子供とされているが、実際は曽祖父である白河法皇と母の璋子の密通によりできた子供で、そのため鳥羽天皇からは疎まれていた。天皇に即位した後も、兄弟の近衛天皇に譲位を迫られ天皇の座を追われた。
白河法皇の死後、鳥羽天皇が上皇となり院政を開始。近衛天皇の崩御後、崇徳は自分の息子を即位させようとしたが、「崇徳が近衛天皇を呪い殺した」という噂を流され、それを聞いた鳥羽上皇は激怒し、後白河を天皇に即位させた。
鳥羽上皇が崩御した際には、遺体との対面すら許されず、その上「崇徳が中心となって政変を企てている」との噂を流され、邸宅が軍に制圧される事態にまで至った。この後に起こったのが「保元の乱」であったが、後白河天皇の夜襲に遭い敗北し、罪人として讃岐に配流された。崇徳は戦死者の供養の気持ちを込めて写経し、経典を朝廷に寄進したが、後白河上皇は「呪いでも込められているのではないか」と疑い、讃岐へと送り返してしまった。
崇徳は激怒し、舌を噛み切って死亡した。その際、経典に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き足した。崇徳の死後、後白河上皇の近親者が相次いで死亡し、平安京で火災が起こり広範囲が焼け、治安や社会情勢が大きく乱れ、崇徳の祟りではないかと噂されるようになった。
身近なところにいる祟り神
祟り神を祀る神社と聞くと、おどろおどろしい見た目を想像してしまうかもしれない。しかし祟り神は、身近な神社に普通にいたりする。
例えば東京都千代田区にある「神田明神」は、とても大きく有名な神社だが、ここには平将門が祀られている。江戸城の鬼門鎮護のために、徳川家康の側近である僧侶が、元々大手町にあったこの神社を、わざわざ現在の場所に移動させたのである。平将門の名前やイラストの入ったお守りまで売られている。祟り神の守護を常に身近に受けたければ、売店に寄ってみるといいだろう。
また、「天満宮」と名前のついている神社は、全て菅原道真を祀る神社である。童謡『通りゃんせ』の歌詞に出てくる「天神さま」も、道真のことをさしている。道真が学問に優れた人物であったことから、受験生などが合格祈願に訪れる。全国各地に多数の天満宮があるので、一番訪れやすい神社だろう。特に広く知られているのは、東京都文京区湯島にある「湯島天満宮」である。
京都府京都市上京区にある「白峯神宮」は、崇徳天皇を祀っている。その他、蹴鞠の守護神である「精大明神」なども祀っており、現在は武道上達のためのお守りが多数売られている。
おわりに
現在祟り神とされている人物たちは、それぞれが波乱万丈の人生を送り、そして悲劇的な最期を遂げている。その後に天災などが起これば、当時の人々は、恨みを持ったまま死んだ彼らの祟りだと信じたに違いない。
祟り神とは、「悪い神」なのではない。それなりの理由があったからこそ祟っていたのだ。人々はそれを祀ることにより、怨霊の怒りを鎮めた。そして祟り神は、多くの信仰を集め、次第に強力な守り神になったのである。信仰するとはつまり、「神を味方につける」ということである。恐ろしいほどの祟りを起こす強力な神を味方につければ、それと同等の強い守護を得ることができるということだ。
上記で紹介した神社は有名なパワースポットでもあるので、興味があれば一度訪れてみるといいだろう。
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