「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰もが極楽浄土にいける。法然上人は、こんな教えを説かれています。
ここに行き着くまでには、大変な苦悩がありました。どのような一生であったのか、法然上人をたどっていきたいと思います。
生誕から出家するまで
法然上人は1133年5/20日、父に押領使(警備司令官)を勤めていた「漆間時国(うるまときくに)」、母は「秦氏(はたうじ)」の子として生まれました。
幼名を「勢至丸(せいしまる)」といい、家族仲睦まじく暮らしていたのです。
ですが勢至丸9才の時、父が夜討ちにあい深手を追うのです。この時、父に隠れるように言われていた勢至丸は、敵に向かって小さな弓で矢を放ち、相手に傷を追わせました。
この傷のせいで相手は父にとどめを刺すことなく屋敷から姿を消しますが、父・時国は命を落としてしまうのです。
亡くなる直前「必ず仇を討つ」という勢至丸にむかい、父は「仇討ちだけはするな」との教えを最後に残し、永遠の別れをとげました。
比叡山での修行と苦悩
その後 勢至丸は、母の叔父が院主をつとめる菩提寺に預けられます。叔父・観覚は勢至丸の非凡な才能に気付き、このような場所で埋もれさせてはいけないと、かつて自身が学んだ比叡山へむかわせたのです。この時、勢至丸13才。
1145年、比叡山西塔・持宝房源光の元で学び、1147年15才の時には、戒壇院で戒を授かり出家しました。
その後、当時最高とされた「攻徳院阿闍梨皇円」の元で「天台三大部」を学びます。しかし、このころの比叡山は僧達が堕落し、人々の幸せを願うようなものはいなかったのです。本来の教えを忘れ、自身の欲を満たすことばかりの姿となっていたことに、ここでは自分が本当に知りたいことに答えは出ないと、皇円の元を去るのです。
法然の名
1150年、次に向かったのは西塔黒谷の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の元でした。
叡空からも「年少であるのに、出離のこころざしをおこすとは、まさに法然道理のひじりである」と絶賛され、『法然房』の房号をあたえられました。そして法然の師・源光と叡空から1字ずつとり『源空』の諱(いなみ)をいただいたのです。
求めていたこと
長く厳しい修行を積まれてきた法然上人が求めていたものとは、いったい何だったのか。ここまで読んで下さった方は、きっとそのように思われるでしょう。
法然上人の求めていたもの、それは…
それまでの仏教は、厳しい修行を重ね悟りを開くという教えだったため、庶民にはなかなか当てはまらないものでした。
法然上人はその事に疑問を抱いていたのです。
どのような階級でも身分でも、老若男女関係なく、さらには盗賊や遊女といわれるものまで差別せず、幸せになり極楽浄土へいける。
そのための答えを探していたのです。
やっとたどりついた『専修念仏』
法然上人は24才で嵯峨野・清凉寺にまつられる三国伝来の釈迦『栴檀瑞像(せんだんずいぞう)』に求道祈願に詣り、そこから南都興福寺(法相宗)の硯学蔵俊、京都御室(華厳宗)の慶雅、京都醍醐(三論宗)寛雅の元を訪れています。
しかし、上人の想いに応えるものは得られず、絶望に追い込まれる日々が続いたのです。
黒谷の報恩蔵に籠って、一切経を読み返し、日々、人々を救う道をひたすら探しました。
半ば諦めかけていたところに、法然上人が救われる日がやっときたのです。
『「南無阿弥陀仏」と声に出し念仏をする み教えこそ救いの道』
この一文を読みあげたとき、上人は西に向かって合唱し涙をながしながら念仏を唱えたと伝わります。
法然上人が長きにわたり、探し求めた『専修念仏』浄土宗 の始まりです。※専修念仏とはひたすら念仏だけを唱えること
1175年、比叡山での修行は法然上人43才までの25年間にわたりました。
苦悩再び
闇が晴れた法然上人は、比叡山を下り、京都を中心に教えを広めます。
相手は朝廷・貴族・武士・庶民など、位や階級は全く無関係に、誰もが『「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土へいける』といった簡単な教えであり、瞬く間に広がりをみせたのです。
これには当時、不安定な背景(天災や戦乱)があったことも広がりを早めた理由になりました。
しかし、何事も全てが上手くいくことはありません。法然上人の教えを間違って解釈し悪事をはたらく者も現れ、これを元に旧仏教(比叡山・南都)の反対勢力から、迫害を受けることになるのです。
1186年、京都大原の勝林院にて「大原問答」と呼ばれる仏教の大論争が行われています。
「仏法」論争を一日一夜かけて、法然上人と名だたる僧・仏教学者で行われました。
どのような問いにも、全く動じず答える上人の姿、仏が衆生を救いとるという語りの力強さに反対勢力も驚きを隠すことは出来なかったようです。
これがきっかけとなり、さらに「専修念仏」は広がりをみせることになりました。
迫害
法然上人の「専修念仏」が広まるのとはうらはらに、何とか吉水一門(※法然は吉水上人とも呼ばれている)を潰しにかかりたいと思う反対勢力も大変なものでした。
北嶺(比叡山)、南都、さらには後鳥羽上皇までもが、法然の教えを内心危険なものと恐れるようになっていたのです。
1204年10月、比叡山側は天台宗座主・真性に「延暦寺奉状」を出します。簡単にいえば、「専修念仏」のせいで悪さを起こしている者がいるから、念仏をやめさせろという内容です。
危険を感じた法然上人(72才)は「7箇条の起請文(※法然上人や門弟が言行を正すことを誓って連署した書状)」 を提出しています。
しかし、これで一旦は収まりを見せたように思えましたが、1205年9月次は南都興福寺が「興福寺奉状」を提出しました。
どちらも「念仏停止」を訴え、吉水一門を罰するようにとの内容だったのです。
鈴虫・松虫事件
1206年12月、とうとう法然上人の悲劇が始まります。
京都・鹿ヶ谷(談合ケ谷)にあった「鹿ヶ谷草庵(ししがたにそうあん)」には、住蓮坊・安楽坊と呼ぶ法然上人の弟子がいました。
2人の美声は名高く、その評判は宮中でももちきりになるほどだったのですが、この2人の説法を聞いた後鳥羽上皇の女官が出家してしまうという事件が起きたのです。
女官は今出川左大臣の娘で、松虫(19才)・鈴虫(17才)。顔立ちも美しく、後鳥羽上皇から大変な寵愛を受けていました。まだ若い2人は窮屈な暮らしに退屈し、先の世を哀れんでいたときに、説法を耳にしたのです。
「お飾りのような生活から脱出し、人間らしく生きたい」
と出家することを固く決意するのでした。
後鳥羽上皇が紀州の熊野路に向かった夜、2人は宮中を抜け出し、「鹿ヶ谷草庵」で住蓮坊・安楽坊に「剃髪出家受戒」の願いをします。
これを受け入れれば、この先どうなるのか。そのことを理解した上で安楽坊は鈴虫の髪に、住蓮坊は松虫の髪に刃をあてました。
建永の法難(承元の法難)
熊野から帰ってきた上皇はこの事を知ると、1207年2月には「念仏停止の院誓」を出し、吉水一門の4人を死罪に、7人を流刑としたのです。
この事件に関わった住蓮坊は生まれ故郷の近江国馬渕にて処刑。
『極楽に 生まれむことの うれしさに身をば佛に まかすなりけり』
安楽坊は京都六条河原で処刑。
『今はただ 云う言の葉もなかりけり なむあみだ仏の み名のほかは』
流刑となったのは師の法然上人と綽空(親鸞上人)を含む弟子7人でした。
法然上人は土佐へ流刑が決まっていましたが、九条兼実の加護で讃岐に流されました。俗名は藤井元彦、76才と高齢でした。
綽空(親鸞)は越後に流され、俗名を藤井善信とされ、35才でした。
鈴虫・松虫の2人は法然上人の弟子のすすめにより、出家後に瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明坊の妙念尼のもとにわたり、一生を過ごしたのです。
勅免・一枚起請文
しかし建永の法難からわずか1年もせず、法然上人は勅免されました。それだけ「専修念仏」の人気が高かったからです。
入洛することは、まだ許されていなかったため、しばらく大阪箕面の勝尾寺に留まっていました。京都へ戻ることが許された法然上人は、鹿ヶ谷に2人の弟子の名前をつけた「住蓮山安楽寺」を建て菩提を弔いました。
綽空(親鸞)も許され、すぐにでも師の元へ向かおうとしましたが、雪の越後からは帰ることが出来ません。残念なことに、師弟の再会を果たすことは出来なかったのです。
京都に戻った法然上人は、自らの命が短いことを悟り、遺言を残しています。これが今に残る「一枚起請文」で、弟子の勢観房源智上人に授けました。
こうして全てを終えた法然上人は1212年1/25日、80才で安らかに旅立たれたのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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