城,神社寺巡り

【真田氏2代の城】 上田城に行ってみた

真田氏2代の居城として有名な上田城

真田(信繁)幸村の父である真田昌幸が1583年に築城し、真田氏が松代に転封されてからは仙石氏が入城しました。

天守は残っていないものの、市民にとっても憩いの場である上田城に行ってみました。

上田城とは

上田城に行ってみた

画像:尼ヶ淵から上田城を望む wiki c Taken

上田城は、元々は真田氏館の当主であった真田昌幸が戦国時代末期の1583年に築城を開始した平城で、2年後の1858年頃に居を移したと言われています。

武田家の家臣であった昌幸は、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅んだあと、信長の宿老である滝川一益の与力となり、本能寺の変で信長が亡くなると再び自立し、近隣を治める北条氏や徳川氏、上杉氏と折衝し、豊臣政権で所領を安堵されました。以降は真田氏2代の城となります。

仙石氏、松平氏と城主を替えましたが、明治以降は破却や城外への移築などにより石垣と西櫓が残るのみとなっていました。

昭和に入り櫓2棟が再移築され、櫓門や塀などが木造復元されました。

真田神社

画像:真田神社 本人撮影

本丸跡には真田神社が建立されています。

上田城は仙石忠政が1628年に逝去し仙石氏が転封、その後藩主が交代され藤井松平家の城となりましたが幕末を迎えました。

そのような経緯から、戦で落城したことがない城として受験生などに人気があります。

真田井戸

上田城に行ってみた

画像:真田井戸 本人撮影

真田神社の左手奥に真田井戸があります。

この井戸は城内唯一の大井戸で、城外への抜け道があったという説もあります。

人が入れるくらいの大きさは十分にあります。

西櫓

画像:上田城西櫓 本人撮影

上田城が破却・移築された後も残っていた(やぐら)です。

西櫓は真田神社左手から行くことができます。上田城内で江戸時代から残っている建物でもあります。

東虎口櫓門

上田城に行ってみた

画像:上田城東虎口櫓門 本人撮影

上田城といえば「東虎口櫓門」です。

南櫓と北櫓(両方とも再移築)の間をつなぐ位置にあり、中には火縄銃のレプリカがあります。レプリカは自由に触ることができますが、子供が持つには少し重いようです。

北櫓と南櫓の中は史料の展示などが行われており、入ることができます。

上田城に行ってみた

画像:真田石 本人撮影

東虎口門をくぐる手前の右側に石垣にあります。とても大きな石で城主の権威を示すために大きさを競ったといわれています。

この石は真田信之が松代に移封された際に持っていこうとしましたが、微動だにしなかったという伝承があります。

実際にはこの石垣は仙石忠政の時代に作られたものだということですが、地元の人たちから真田家が愛されていたということがわかるエピソードです。

上田城に行ってみた

画像:南櫓下石垣 本人撮影

東虎口櫓門手前から南櫓下の石垣を移したものです。尼ヶ淵方面を向いています。

現在は空堀になっていますが、写真左手の石垣部分に穴のような箇所が見えるので、もしかすると水堀だったのかもしれません。

上田市立博物館

上田城址公園内には、真田氏や仙石氏の歴史的史料が展示されている博物館があります。

大人500円で博物館と櫓の両方に入ることができ、北櫓の中以外は写真撮影も可です。

上田城に行ってみた

画像:仙石秀久着用具足 本人撮影

 

上田城に行ってみた

画像:紺屋町八幡神社絵馬 本人撮影

このような展示物があります。他にも山浦真雄作の太刀なども展示されています。

別館には主に真田氏に関する資料が展示されています。ただし、重要文化財に指定されているものは限定公開となっています。

上田城児童遊園地

上田城に行ってみた

画像:上田城児童遊園地 本人撮影

上田城址公園の観光駐車場側に複合遊具がある遊び場があります。

この写真の撮った向きがよくないのですが遊具がお城仕様になっています。

公園内も広いので小さな子供を連れてお散歩するにはよいのですが、それでも体力を持て余しているときに連れていくと喜んでくれます。

終わりに

真田氏2代ののち小諸から仙石氏が移り松平氏が入城、上田合戦でも落ちることがなかった名城・上田城。

丑寅の方角が隅落としされた土塁など特徴的な部分もあり見ごたえがあります。特に桜の時期や紅葉の時期には県内外から多くの観光客が訪れます。

近くに来た際は、ぜひ立ち寄ってみてください。

参考 :

芝辻俊六「真田昌幸」吉川弘文館

上田HP 上田城跡公園 – 上田市ホームページ (city.ueda.nagano.jp)

上田市立博物館HP 上田市立博物館 (umic.jp)

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2024年 1月 06日 12:33pm

    真田氏3代の「城」は間違いじゃないでしょうか?
    昌幸と信之の2代では?
    上田市HPでも3代の「郷」という表現はありますが、3代も幸隆、昌幸、信之・信繁を指してます。

    1
    0
  2. アバター
    • 草の実堂編集部
    • 2024年 1月 06日 12:47pm

    確かにそうですね、修正させていただきます。
    ご指摘ありがとうございます!

    1
    0
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 太原雪斎ついて調べてみた【黒衣の宰相とも呼ばれた今川義元の師】
  2. 比叡山で3000人以上殺害した信長は、本当は信心深かった?
  3. 築山殿事件で瀬名と命運を共にする少女“たね”とは何者?その実像に…
  4. 武田信繁とは【武士の心得となる家訓を残した信玄の実弟】
  5. 関東の覇者でありながら評価の低い・北条氏政 【小田原征伐では日本…
  6. 戦国時代に実際に行われていた『奇策』とは 「釣り野伏せ、刈田狼藉…
  7. 三方ヶ原の戦い ~こうすれば徳川家が滅亡し三河制覇できた
  8. 長篠城へ行ってみた【日本100名城】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

万里の長城は時代と共に変化していった 「春秋、秦、漢、金、明」

中国大陸の誇る世界遺産万里の長城とは、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコ…

間一髪!あやうく羽柴秀吉への養子≒人質に出されかけた松平定勝 【どうする家康】

小牧・長久手の戦いにおける和睦条件として、羽柴秀吉の元へ養子に出された徳川家康の次男・於義伊。…

「仏教伝来と大化の改新」飛鳥時代から始まる律令国家【倭から日本へ】

日本が「倭国」という国家として形成された時代。「飛鳥時代」は、地方で豪族たちが権勢を誇った古…

巌流島の決闘の真相 後編 「宮本武蔵は遅刻をしなかった?」

武蔵は遅刻をしなかった?通説や映画・TVドラマなどでは、武蔵が小次郎を苛立たせるためにわ…

最期は自分の顔面を…公暁に仕えた稚児・駒若丸(三浦光村)の過激な生涯【鎌倉殿の13人】

建保5年(1217年)6月20日、京都での修行から鎌倉へ舞い戻った公暁(演:寛一郎)。彼は鶴岡八幡宮…

アーカイブ

PAGE TOP