中学・高校の歴史の教科書では、平安時代初めの章に坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)の行った蝦夷征伐が重要事項として取り上げられています。
ですから、坂上田村麻呂の名前は、歴史好きな人だけでなく、多くの人がご存じのことと思います。
しかし、その子孫・末裔となると余り知られていないというのが実状ではないでしょうか。
今回は、そんな坂上田村麻呂の子孫たちについて調べてみました。先ずは、田村麻呂について、簡単に触れておきましょう。
桓武天皇の信任が厚かった坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は、奈良時代末期の758(天平宝字2)年に、坂上刈田麻呂(かりたまろ)の三男として誕生します。
坂上氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)の阿知使主(あちのおみ)を始祖とし、弓馬などの「武」をもって朝廷に仕えた氏族でした。
刈田麻呂は、764(天平宝字8)年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起こると、孝謙天皇側に付き参戦。
仲麻呂三男の参議・訓儒麻呂(くすまろ)を射殺するという武功をあげ、坂上氏を地方貴族から中央貴族に押し上げます。
父の後を継いだ田村麻呂は28歳にして従五位下に昇進。軍事貴族としての道を歩みだします。そして、794(延暦13)年の第二次蝦夷征伐で、桓武天皇により副将軍・征東副使を命じられました。
この時、田村麻呂は近衛将監・少将という官位にあり、桓武天皇の側近として、大きな信任を得ていたようです。
当時の彼への評価は、「武勇は人に勝る。しかし、それに奢ることなく性格は寛容で、部下をとても大切にする」というものでした。まさに、武人の鑑ともいうべき人柄であったのです。
その3年後、田村麻呂は第三次蝦夷征伐で征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷を指揮する阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)を降伏させます。
そして、鎮守府将軍などを歴任した後、坂上氏としては初めて参議に昇進。公卿に列し、娘の春子を桓武天皇の妃として天皇家と外戚関係を結びました。
桓武崩御の後も、平城・嵯峨朝で昇進を重ね、正三位大納言に昇り、811(弘仁2)年に54歳で薨御したのです。
平野本郷の開発領主となった広野麿
田村麻呂の後を継ぎ、坂上氏の氏長者となったのは、二男の広野麿(ひろのまろ)でした。
その人物像として『日本後紀』には「田村麻呂ゆずりの武人で若い頃から武勇の誉れが高かったが、他に才芸はなかった。思った通りに行動し、賞賛に価するほど節操があった。」と記されています。
父同様に武勇に優れ、実直な人柄であったことが伺え、嵯峨天皇のもとで、武官を歴任し、823(弘仁14)には従四位下に昇りました。
そして淳和朝で、右兵衛督従四位下を務めるも、828(天長5)年に42歳で卒去。時は、藤原北家による政治独占体制が始まっており、田村麻呂のように天皇家との深い結び付きを構築することはできませんでした。
広野麿は、現在の大阪市平野区にあたる摂津国住吉郡平野庄を朝廷から与えられ、その地を開発し領主として屋敷を構え「平野殿」とも呼ばれたといいます。このため、平野の名前は、広野から変化したものとも考えられているのです。
大念仏寺は、開祖の良忍が四天王寺で見た霊夢に基づいて広野麿の私邸内に建てた修楽寺が前身とされ、その後、融通念仏宗の根本道場となったことから、寺名を改めました。
また、桓武の妃で葛井親王(ふじいしんのう)を産んだ妹の春子は、桓武崩御後は、広野麿を頼り平野庄に移り住み、長寶寺の開基となったのです。
春子の墓は、長寶寺の墓所に坂上一族とともに祀られています。
広野麿の子孫たちにより自治が行われた
坂上広野麿の子孫たちは、その後も平野に土着し開発を続け、幾つかの分家が生じ、広野麿のひ孫から分かれた平野氏は、平野庄の民部を称します。
その平野氏からは、末吉氏・土橋家・辻花氏・成安氏・西村氏・三上氏・井上の庶流が起こり「平野七名家」と呼ばれました。
七家の中には、朱印船貿易で海外に飛躍した末吉孫左衛門吉康や、大阪の道頓堀を通した安井道頓(成安道頓)などを輩出しています。
七家は、宗家の坂上氏のもと、中世に自治都市として成立した平野本郷の自治に携わりました。
自治都市とは、大名などの支配を受けず「町衆」と呼ばれる町人などが自ら収める都市を指します。
平野本郷は、同じ自治都市として名高い堺が海外貿易で富を得たのに対し、水運を活用して国内の流通で富を蓄積していきました。
1763(宝暦13)年の『摂州平野大絵図』には、堀と土塁、いわゆる環濠に囲まれ、整然と区画された碁盤状の町並みが描かれます。
北側に流れる平野川から、堀に水を引き込むことから環濠都市であることが分かるのです。
環濠の周辺には寺社を配します。
その理由は、寺社の法力や神徳で町を守るとともに、寺社の広い敷地を防衛時の兵站として活用するという、信仰と軍事の二面性が考えられます。
現在も、大念仏寺・長寶寺・全興寺・杭全神社(くまたじんじゃ)などが現存。
全興寺は、平野本郷の中央に位置し、この寺院を中心に町が形成されていったとされる真言宗の古刹で、1576(天正4)年再建の本堂の他、多くの堂宇が並びます。
杭全神社は、広野麿の弟・浄野(きよの)の子である当道(まさみち)が、864(貞観4)年に牛頭天王を勧請して祇園社を建てたのが始まり。当道は、鎮守府将軍などを歴任した武官でしたが、平野本郷の経営に尽力したと伝わっています。
また、外部との出入り口として、13の木戸を設け、そこに地蔵尊を置きました。夜間、固く門を閉じたこの木戸は、城郭でいうところの虎口にあたります。
そして、地蔵尊は、地蔵講により町内の結束力を高めました。
平野本郷は大阪の陣の際、徳川秀忠の陣が置かれ、戦火により大打撃を受けてしまいます。
しかし、江戸時代になると奈良街道の中継地として、交通の要衝になり、完全復活を遂げました。
征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫たちが育んだ息吹が、現在も平野には色濃く息づいています。そして、いまなお、かつての環濠都市の面影を残しているのです。
大阪に行かれた折は、ぜひ平野に足を運んでみませんか。
※参考文献
高野晃彰編 大阪歴史文化研究会著 『ぶらり大阪古地図歩きー歴史探訪ガイドー』メイツユニバーサル刊 2020年4月
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