城,神社寺巡り

なぜ薬師寺は復活できたのか「100万巻写経が生んだ再興の物語」

奈良市西ノ京にある薬師寺は、世界文化遺産「古都奈良の文化財」を構成する寺院のひとつであり、南都七大寺にも数えられる名刹です。

西ノ京とは、その名の通り、平城京の西側に広がる地域を指します。

奈良公園周辺にある興福寺・東大寺・春日大社などの観光地と比べると、訪れる人は比較的少なく、大和路らしい落ち着いた風情の中で、歴史散策を楽しむことができるエリアです。

近年、薬師寺では、創建当初の伽藍配置を目指した再建が進み、さらに創建当初から残る国宝・東塔も、長期にわたる解体修理を終えました。

そこで今回は薬師寺の復興の歩みを振り返り、高田好胤管主の熱意によって進められた、再建の苦難の道筋について調べてみました。

画像:薬師寺の東西三重塔 筆者撮影

薬師寺の概要

薬師寺は、近鉄橿原線・西ノ京駅のすぐ前にある寺院です。

その創建は、飛鳥時代にさかのぼります。

天武天皇が、皇后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立を発願し、持統天皇の即位後に藤原京に造営されました。

その後、平城遷都に伴い、718年ごろ現在の西ノ京の地へ移されています。

創建当初の薬師寺は、金堂と講堂の両側に東西の塔を配する、壮大な伽藍配置を誇っていました。

しかし1300年におよぶ歴史の中で多くの堂塔が失われ、50年ほど前まで、境内には国宝の東塔と仮金堂がとりわけ目立つ、往時とは大きく異なる景観が広がっていました。

それでも、各屋根の下に裳階(もこし)と呼ばれる、小さな屋根を持つ優美な三重塔・東塔や、仮金堂に安置された柔和な表情の薬師三尊像に魅せられ、薬師寺は多くの人々が訪れる寺院でもありました。

とくに調和のとれた東塔の姿は、しばしば「凍れる音楽」とたたえられています。

また、薬師如来の左右に日光菩薩・月光菩薩を配した薬師三尊像は、享禄の兵火で光背を失いながらも、当初の造形を伝えています。

造立当初の鍍金は、兵火や長い年月の中で失われ、現在は漆黒に近い落ち着いた姿となっています。

画像:薬師三尊像 筆者撮影

境内には、仮金堂と東塔がひっそりと建ち、西塔は心柱の礎石だけが残る。そんな姿が、長い間続いていました。

筆者が初めて薬師寺を訪れたのも、まだそのような時代でした。

写真撮影が趣味だった父に連れられて訪れたのですが、境内には往時の壮麗な伽藍を思わせる建物は少なく、どこか寂しい印象を受けたことを覚えています。

とくに、野ざらしのような状態で置かれていた仏足石の光景が、妙に記憶に残っています。

高田好胤氏の略歴

この薬師寺の復興に大きく尽力した人物が、高田好胤(たかだ こういん)氏です。

高田氏は、1924年(大正13年)3月30日に大阪市で生まれ、1998年(平成10年)6月22日に74歳で亡くなりました。
俗名は高田好一といいます。

幼い頃は裕福な家庭で育ちましたが、11歳のときに父親が亡くなり、家計は急速に苦しくなりました。

母方の実家が東大寺龍蔵院であった縁から、当時薬師寺の管主であった橋本凝胤に弟子として引き取られ、厳しくも愛情深い指導を受けながら育てられたといいます。

旧制奈良県立郡山中学校(現在の奈良県立郡山高等学校)を経て、京都の龍谷大学で仏教学を学びました。

1935年に薬師寺に入り、1946年に龍谷大学を卒業。
1949年には薬師寺の副住職に就任します。

その後、「仏法の種をまくことが自分の使命である」と考え、修学旅行で訪れる学生たちに向けて、わかりやすくユーモアに富んだ法話を語り続けました。
その法話を直接聞いた人は、延べ500万人にのぼるともいわれています。

そして1967年、高田好胤氏は法相宗・薬師寺の管主に就任し、失われていた白鳳伽藍の再興という大事業に取り組むことになるのです。

100万巻写経勧進による再興事業

1967年に管主となった高田好胤氏は、「物で栄えて心で滅ぶ」ともいわれた高度経済成長の時代だからこそ、精神性を取り戻す象徴として、薬師寺の伽藍を復興させる必要があると考えました。

そこで始められたのが、百万巻写経勧進による白鳳伽藍の再興事業でした。

「写経勧進」とは、寺院の建立・修復などのために、人々に写経をしてもらい、その供養料(納経料)を募る勧進活動のことです。

高田氏は、「一人1000円で写経を納めてもらう」という形で写経勧進を行い、目標は100万巻。
テレビ出演などを通して広く支援を呼びかけるとともに、自ら全国を回って写経勧進を続けました。

その結果、昭和51年(1976年)には金堂の再建が実現し、これをきっかけとして白鳳伽藍の建造物は次々と再建されていきました。

その後も写経は続き、1997年には600万巻に達したのです。

画像:薬師寺の金堂と東西三重塔 筆者撮影

現在の薬師寺の伽藍は、鮮やかな朱塗りの建物が並び、古寺の風情とはやや異なる印象を受けるかもしれません。

しかし、創建当初にはこうした華やかな姿こそが人々の信仰を集めていたのだとも考えられます。

その後、高田好胤氏の存命中には西塔や中門などの再建が進み、さらに没後もその遺志は受け継がれ、大講堂などの復興が進められました。

こうして薬師寺の白鳳伽藍は、長い年月をかけて大きく再興されていったのです。

さらにこの復興の流れの中で、国宝・東塔は2009年から約100年ぶりとなる解体修理に入りました。

10年以上の歳月をかけた大修理は2020年末に完了し、2021年には竣工式が営まれています。

画像:薬師寺の講堂 筆者撮影

ちなみに白鳳時代とは、文化史・美術史上の時代区分で、主に天武天皇・持統天皇の時代を中心とした飛鳥時代後半から平城遷都に至る頃までを指します。

日本には数多くの寺院がありますが、歴史や神社仏閣、そして美術史に関心のある方にとって、薬師寺はぜひ一度訪れておきたい寺院の一つといえるでしょう。

薬師寺から唐招提寺への散策道

薬師寺から唐招提寺へは、徒歩でおよそ10分ほどの距離です。

薬師寺の北側には築地塀が続き、奈良市中心部の賑わいとは少し異なる、落ち着いた雰囲気の中を歩くことができます。

道沿いには蕎麦屋や食事処も点在しており、奈良らしい静かな町並みを感じながら、ゆったりと散策を楽しむことができます。

終わりに

高田好胤氏の情熱によって、薬師寺は白鳳時代の伽藍の姿を取り戻しました。

その復興の歩みを改めて振り返ると、一人の強い想いが多くの人々を動かし、これほどの大事業を実現させたことに深い感動を覚えます。
同時に、その志に共感し支えた多くの人々の存在にも思いをはせずにはいられません。

そこには日本人の心の奥底にある神仏への信仰や、文化財を大切に守ろうとする気持ちが息づいているように感じられました。

参考 : 『日本書紀』『続日本紀』『薬師寺公式サイト』他
文:撮影/ 草の実堂編集部

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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