日本史

江戸時代のお風呂事情について調べてみた

はじめに

寒い冬の日温かいお風呂に入ると、身体の疲れがとれ心も落ち着きますね。日本は火山国ということもあり、数多くの温泉があります。ちなみに記録に出てくる限りで一番古い温泉地として、愛媛県の道後温泉が有名です。

スポンサードリンク

 

さてこのお風呂に入る習慣ですが、これは日本で元々行われていたものではなく、日本では6世紀ころ伝来した仏教の教えの中にある沐浴にその起源があります。

仏教の教えでは「体の汚れを落とすことは仏に仕える者として大切な仕事である」と説いており、多くの寺院では浴堂が設けられ、入浴が行われていました。

やがて入浴は「七病を除き、七福を得る」として参拝客を入浴させる寺院もあらわれ、中には入浴をしに、寺院に参拝する者もいたようです。

なお当時は現代の様に「お風呂」と「湯」は別のものでもあったらしく、「湯」というのは身体をお湯に浸して入浴する現代と変わらないものですが、「お風呂」というのは現代でいう「サウナ」のようなものでした。

人々は蒸気で蒸せられた身体をこすって垢を出し、かけ湯で流すというのが一般的だったようです。

しかし江戸時代まではお風呂というのはとても贅沢なものであるとされ、武士であったとしても水をかぶる「行水」が行われていたようです。

さて時が流れ江戸時代が訪れると江戸の街に初めて公衆浴場、いわゆる「銭湯」が出現します。

そこで今日

「江戸時代のお風呂事情について調べてみた」

と題して、江戸時代入浴がどのように行なわれていたかを書いていこうと思います。

江戸時代のお風呂 は混浴?

1591年日本で初めての銭湯が江戸にできます。当初の入浴料は1文でこれは現代で言うところの数十円でした。

当時のお風呂は混浴でありましたが、お風呂の形態が上で説明したよう現代でいうサウナのようなものであったため、男性は、ふんどしをつけたまま、女性は湯文字といって腰巻のようなものをつけたまま入りましたので、そういった事故は起こらなかったといいたいところですが、女性は腰巻きだけなので、胸は当然あらわになっていたため、事故はやはり起こっていたようです。

時代が下っていくにつれ、次第に湯船に湯をはる入方法が浸透し、男女とも裸ではいるようになりますが、それでも混浴は残り続け、結局混浴は江戸時代の終わりまで続けられました。

なお江戸時代の後期になると、明確に男湯と女湯に分けて営業する風呂屋もありましたが、それでも男湯と女湯の間に設けられたしきりが木の板一枚であったのと、結果的に浴槽だけは、男女共用であったため、混浴は残り続けます。

ただ桶はマイ桶という制度があり、ほとんどの女性は男性との共用を避けるため、マイ桶を持っていたようです。

なぜこれほどまでに混浴にこだわったかというと、まずは火事の問題です。江戸の街は毎日のように火事が起こり、人々は火事になることを恐れて家でお風呂を沸かすことはしませんでした。

これは銭湯を運営する商人にとっても例外ではなく、男と女湯にわけると、それだけ燃料も食うし、火事のリスクも高くなるため、なかなか男女別れてお湯を作ることにと踏み切れなかったと考えられます。

2番目に江戸時代は慢性的な薪不足であり、風呂屋は常に燃料不足に悩まされていました。そしてこぞって川などに薪を拾いにきては、燃料に使っていたといいます。

最後に水不足です。江戸の街は人口が増えたにもかかわらず水道が十分に整っておらず、男湯と女湯の2つにいれる水を確保するのが難しい状況でありました。

江戸時代のお風呂は憩いの場だった?

今まではお風呂の中の話をしてきましたが、次はお風呂以外に併設された施設について書いていきましょう。

江戸時代の風呂屋は多くの場合2階建てだったといいます。なぜ2階があったかというと、武士が銭湯に入る場合どうしても刀を置いて入らなければならないため、刀置き場が必要になったというのが大きな理由です。

しかもこの刀置き場、男風呂だけでなく、女風呂の2階にもできたというのです。理由は早朝に女風呂に入る若衆がいたためとされます。

やがてお風呂屋の中にはこの刀置き場をただの置き場にしていくのはもったいないと、副業を始めるところも現れ、刀置き場を風呂屋の2階席とし、囲碁や将棋などができるサロンとして、武士だけでなく一般庶民にも開放されて憩いの場になっていきます。

中にはお酒を提供するお風呂屋も現れ、これが受けて大いに流行っていくのです。

江戸時代ならではの入浴のルールがあった

江戸時代は現代のように電気がありません。提灯くらいならありますが、それでも日が暮れてしまえば、真っ暗になってしまいます。

真っ暗の中手探りのままお風呂に入るわけですから、当然指先で入浴している人の目を突いたり、頭を踏みつけたりすることもありました。

そうならないためにも当時は入浴したら必ず声をかけるという江戸時代ならではの暗黙のルールがあったようです。

まとめ

いかがだったでしょうか?正直江戸時代を通して男女混浴だったというのには私も驚きました。

実際このお風呂の習慣についてはペリーも驚いていたといいます。

江戸時代についてはほかにも面白い記事がいっぱいあるので、また機会があれば調べてご紹介していきたいと思います。

今日も読んで頂きありがとうございました。



スポンサードリンク

 

Rio

Rio

投稿者の記事一覧

戦国時代、江戸時代の文化や生活、教科書にはない歴史の裏知識などが得意

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2020年 12月 10日 1:18am

    湯屋の多くが二階建てであったこと、その理由が刀置き場が必要だったこと、これはどのような史料にもとづいているのでしょうか。

    0
    0
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 人違いで藩主を殺した刃傷事件 「板倉勝該事件」 ~後編
  2. 徳川埋蔵金は現代の価値に換算するといくらだったのか?
  3. 『日本書紀』 が示す日本の国家形成における真実とは?
  4. 真田 vs 徳川 「上田合戦(第一次・第二次)」について解説
  5. 【神社に祀られる神様を知る】必勝祈願・芸能上達なら「八幡さま(は…
  6. 古田織部・切腹した天下の茶人 【武将と茶人の二刀流~へうげもの】…
  7. 徳川家康の最期と遺言 「死因は胃がん?なぜ一周忌後に日光に祀れと…
  8. 『将軍に直接重税を訴えた伝説の農民』 佐倉惣五郎 ~嫁と子ども4…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

武田信玄「幻の西上作戦」 後編 ~「信玄は北ではなく南へ向かった? 突然の信玄の死」

前編では武田信玄がなぜ「西上作戦」を開始したかの経緯について解説した。後編ではいよいよ始まっ…

「逃げの小五郎」と呼ばれた桂小五郎は剣豪だった 【坂本龍馬との試合】

桂小五郎とは桂小五郎(かつらこごろう)とは、西郷隆盛・大久保利通と共に「維新三傑」の一人…

キッチンカーはなぜ人気なのか?【開業許可と種類】

フードフェスだけではなく、音楽フェスなどの野外フェスで必ずお世話になるといってもいいのがキッ…

いざ江戸城へ!家康のお国替え『徳川実紀』を読んでみよう【どうする家康】

北条氏政・氏直父子を滅ぼした豊臣秀吉から、関東への国替えを命じられた「我らが神の君」徳川家康。…

「砂地に松原」「玉石に竹垣」…明治時代の別荘地が 藤沢・鵠沼の変遷、定点観測の写真紹介 

明治時代、別荘地として開発された神奈川県藤沢市の鵠沼地区。近年、まちが変容する様子をカメラで定点観測…

アーカイブ

PAGE TOP