三代将軍の徳川家光は、幕藩体制や幕府機構の確立など、約260年も続いた徳川幕府の基礎を築いた将軍として知られています。
そして家光といえば、子どもの頃から女性には興味を持たず、男性を好む無類の「男色家」として、お付きの小姓や家臣を寵愛していたことでも有名です。
そんな男色家将軍・家光が初めて心ときめかせた女性は、20歳も年下の若く美しい尼さんだった……という話があります。
目次
病弱で大人しく存在感が薄かった家光
徳川家光は、江戸幕府の第三代将軍で徳川家康の孫になります。
父親は第二代将軍秀忠、母親は浅井長政の三女で豊臣秀吉の養女・達子(江の名で知られる)です。
家光は世子(せいし/正室が産んだ男子のうちもっとも年長の子)なので、祖父・家康と同じ幼名の竹千代を与えられ、明智光秀の重臣・斉藤利三の娘・福(のちの春日局)が乳母として育てました。
竹千代は幼い頃から体が弱く、3歳のときには医師が匙を投げるほどの大病を患っています。
また、吃音(きつおん)があり、言葉を発することが少なく大人しかったために、周囲からは「何を考えているかわからない」といわれていたそうです。
かたや、家光のあとに生まれた秀忠の三男・忠長は、健康で容姿端麗でした。
母・江は忠長を溺愛、父・秀忠も「体が弱い家光より、忠長のほうが次期将軍にふさわしいのでは……」と考え始めたようです。
家光は、そんな両親からの愛情を感じることができず、次第に距離を取るようになっていきました。
病弱だった家光は、26歳頃に天然痘を患い、生死の境を彷徨うほどの重篤な状態に陥ります。
そんな中、家光を深く愛し育ててきた乳母・春日局は、伊勢神宮に参拝し、「一生薬を絶つので、どうかこの病を治してください」と懸命に祈願したと伝えられています。
愛人の浮気に激昂して斬り捨てる家光
病弱な家光に対し、父母に溺愛されている忠長をみて、家臣たちも「次期将軍は忠長のほうがいいのでは」と思うようになっていきます。
そんな空気を感じて家光の将来に不安を感じた春日局は、伊勢神宮詣がてら駿府城にいる家康に会いに行き「家光を次期将軍に」と直訴しました。
家康はその願いを聞き入れ、秀忠と江に「家光を次期将軍として接するように」と伝えたのです。
一方で、家光は幼少期から女性への関心が薄かったとされています。
家光が12歳の頃には、60名以上の少年が小姓として仕えましたが、これらの小姓との間に男色関係があったのではないかと伝えられています。
『大猷院殿御実記』によると、家光は16歳ごろ、坂部五右衛門という小姓と恋人同志だったとされています。
ところが、家光が湯浴みをしている間に五右衛門がほかの小姓にちょっかいをかけ、家光の逆鱗に触れてしまうという出来事が起こります。嫉妬深く激昂しやすい家光は、その場で「無礼もの」と五右衛門を切り捨ててしまったのです。
将軍は、正室や側室との間に子どもをもうけなければなりません。
男性にしか夢中になれない家光をみて、春日局は将来を案じ気を揉んだことでしょう。
男色家の家光と、正室・孝子との冷え切った夫婦関係
家光は、元和9年(1623年)8月に20歳で上洛し、征夷大将軍宣下を受けました。
その翌年、2歳ほど年下の京都の公家・鷹司孝子を正室に迎えます。
ところが、男色家であった家光と孝子の仲がうまくいくはずもなく、二人の関係は結婚当初から非常に険悪でした。
実質的な夫婦生活はほとんどなく、孝子は結婚直後から日々ストレスが溜まっていったといいます。
また、孝子は家光の母であるお江が選んだ結婚相手であり、春日局との関係が良好ではなかったと伝えられています。
お江の死後、孝子は精神的に不安定な状態となり、江戸城本丸大奥を去ることになりました。
義父である秀忠が孝子を京へ戻そうとしたものの、最終的には中丸(現在の中野区)で暮らすことになります。
家光が寵愛した二人の側近
家光は将軍に就任後、近習に取り立て寵愛した家臣がいました。
特に破格の出世を遂げたのが、堀田正盛(ほったまさもり)と、酒井重澄(さかいしげずみ/酒井忠勝)でした。
堀田正盛は家光の小姓となり、五千石の領地を与えられるという異例の待遇を受けました。しかし、その急速な出世を妬む者たちにより、父・堀田正吉が攻撃を受けることになります。正吉は息子の立場を案じ、自ら命を絶ちました。
正盛自身は、慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後、殉死しています。
一方、堀田正盛とともに「一双の寵臣」と称された酒井重澄も寵愛を受けて、大出世を遂げました。
しかし、突然の改易により、その地位を失っています。
※改易とは、武士に対して行われた処分で、士籍剥奪に加え、禄高や拝領した家屋敷の没収が伴うもの。
酒井重澄が改易された理由については諸説ありますが、一説には、重澄が病気療養のために数年間家光の側を離れている間に、正室と側室の双方に子供を産ませていたことが発覚したためといわれています。
これを知った家光は、「女などにうつつを抜かすとは」と激怒し、重澄を「溺愛していた家臣に裏切られた」と見なして罷免したといいます。
家光の怒りは凄まじいものだったようです。
男色に疲れた家光に側室を紹介する春日局
酒井重澄に裏切られ、男色に疲れたタイミングを見計らうかのように、春日局は家光の嗜好を変えるため、多くの側室を家光に引き合わせました。
その中でも特に有名なのが「お万の方」です。
お万の方は寛永元年(1624年)、公家である六条有純の娘として生まれました。
13歳で伊勢宇治郷の尼寺・慶光院に入山し、3年後には十七代院主となった女性でした。
慶光院は将軍家の祈祷も行う由緒ある寺院でした。寛永16年(1639年)3月、院主であったお万の方が江戸城を訪れた時のこと。
将軍家光に挨拶をした際、男色家だった家光が、お万の方の姿を見て惹きつけられてしまったそうです。
お万の方は誰もが見惚れるような美貌の持ち主で、中性的な魅力が際立つ尼僧姿に美少年のような魅力を感じたのではないか、ともいわれています。
家光に芽生えた変化を敏感に察した春日局は「これは、女性に目覚めさせるチャンス」と思ったのでしょうか。
お万の方を還俗(※)させ、髪が伸びるまで田安屋敷に留めてから大奥入りさせました。
※還俗とは、一度出家した者がもとの俗人に戻ること。
当時、大奥には春日局が奔走して集めたたくさんの美女がいたのですが、家光はお万の方をことさら寵愛したそうです。
子はなさずとも寵愛と信頼を集めたお万の方
その後、家光は大奥の女性たちとの間に、四代将軍となる家綱、五代将軍となる綱吉など6人の子どもをもうけました。
しかし、一番寵愛したとされるお万の方との間には、子どもが生まれることはありませんでした。
お万の方が妊娠しないように不妊薬を飲まされていた、あるいは妊娠しても堕胎薬を使わされていた、という恐ろしい疑惑もあります。
この背景には、お万の方が公家出身であったことが関係していると考えられています。
「公家の血を引く子が将軍となることで、朝廷が権威を増すのではないかと懸念された」「御台所・孝子との間で公家同士の対立が生じるのを避けた」など、さまざまな説が語られていますが、真実は不明です。
お万の方は家光との間に子どもを持つことはありませんでしたが、春日局の死後、家光から奥向きの取り締まりを命じられ、大奥の運営を任される立場となりました。(実際には、春日局の姪・祖心尼が握っていたという説もあります)
慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後、お万の方は他の側室達とは違い、落飾(らくしょく/断髪して位牌とともに残りの人生を冥福を祈り静かに暮らすこと)はしませんでした。
彼女は「お梅の局」と名を改め、奥女中の最高位である大上臈(おおじょうろう)として再び大奥勤めを始めました。
家光から深い寵愛と信頼を受けていた彼女は、その後も重要な役割を果たしたとされています。
明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事)では、家光の側室である丸殿(鷹司孝子)とともに格子川の無量院に避難しました。
その後、お万の方は晩年を穏やかに過ごし、88歳で亡くなったと伝えられています。
最後に
男色家だった家光が一目惚れするほど、美少年のような中性的な美貌を持つお万の方は、家光より20歳も年下でした。
家光との間に子をもうけることは叶いませんでしたが、生涯にわたり家光から寵愛と信頼を寄せられていたといわれています。
そのせいか、昭和の時代から何度もドラマ化され、多くの俳優が家光とお万の方を演じているのも興味深いところです。
参考:『徳川の夫人たち 上 新装版 (朝日文庫) 』
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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