学校で教える桶狭間合戦
桶狭間の戦いとは、織田信長が隣国から大軍で攻めてきた、今川義元を奇襲で破ったという合戦で、中学校の歴史の教科書では、織田信長のコーナーで桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変というのは必ず習います。学校で習う合戦の流れはこうです。
織田信長は迫りくる今川義元の軍勢にどうしてよいかわからず、やる気を無くしていた。そこに物見より、知らせが入り今川軍が織田砦に連戦連勝をしたことをいいことに、もう勝ったつもりで桶狭間という谷間で酒を飲んで休憩しているという知らせが入ってきた。これをチャンスととらえた織田信長はわずかな手勢を率いて、山から一気に今川本隊のいる谷に、駆け降り、今川義元を急襲、見事首を上げることに成功した。
しかしながら私たちは今までこの「狭間」という言葉に騙されてきたことをご存知でしょうか?実は桶狭間は谷ではなく、桶狭間山という、山だったのです。
つまり今川本隊は桶狭間山に陣を敷いていたことになります。イメージして欲しいのですが、山の頂上に登れば下の敵は丸見えです。ゆえに奇襲などできようはずがありありません。
では織田信長はどのようにして、今川義元に勝ったのでしょうか?
今回は「桶狭間の戦いの真実を調べてみた」と題して桶狭間の戦いの真実について書いていこうと思います。
今川義元の目的
学校の教科書などには、今川義元が上洛【京都にいく】をするために、まず手始めに織田信長を討ちとろうと考えていたとありますが、最近の研究でそれは否定されつつあります。
なぜなら上洛をするには、斎藤、浅井、六角といた戦国大名を倒すあるいは、同盟し協力を求めなければなりません。しかし実際の記録にはそういった事実が書かれていないこと、次に今川の軍勢が25000と伝わっていますが、これらの大名を一度に滅ぼすためには、圧倒的に足りません。
後に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際も6万の大軍だったことを考えると、狙いは織田信長の領国である尾張のみであったと思われます。
桶狭間の戦い は奇襲ではなく分断作戦だった?
1560年5月12日今川義元の軍勢は、駿府を出発し5月17日には今川領で最も三河に近いにある、沓掛城(くつかけじょう)に布陣します。
そして5月18日松平元康【徳川家康】を先行させ、大高城に食料を届けさせ、翌5月19日今川方の三河勢が守る大高城に向かって進軍します。先行した松平元康は激戦の末、織田方の丸根、鷲津の砦を落とし、正午に大高山で人馬を休ませていました。一方今川本隊は大高城の手前の桶狭間山で休憩をとっており、丸根、鷲津の砦が落ちたという報告を受けていました。
なお今川義元の軍は25000と言われていますが、この時桶狭間山にいた今川軍は5000ほどであったと推測されます。
この時、信長は「桶狭間山に今川本隊が布陣した」という情報を聞き、中島砦方面から山に登ろうとしますが、急こう配なうえに道が狭く、加えて山の上から敵の様子が丸見えであることから、家老に止められるが、それを振り切って真っすぐに、桶狭間山を目指したといいます。
一説には実はこの時桶狭間山を守っていた葛山信貞(かつらやまのぶさだ)という武将が、武田家と通じており、織田信長を見逃していたという説もあります。その根拠として武田家の歴史書「甲陽軍鑑」には今川軍が桶狭間山で酒宴を開いていたことがなぜか書かれており、説を裏付けるものであるとされていますが、賛否両論がありはっきりとはわかりません。
いずれにせよ、織田信長は黒煙を上げて今川本隊に攻めかかります。今川軍は大軍とはいえ桶狭間山の狭い地形と、休憩時に不意を突かれ、動揺して大混乱に陥ってしまいます。
今川義元としては、織田信長がまさか2000もの軍勢でしかも、狭く急こう配な場所から、攻めてくるとは思ってもみなかったことでしょうが、戦の常套手段として、多勢の敵と戦うためには平坦な場所より、狭く見通しの悪い場所で戦うことは、普通であったと考えられます。
加えてこの時、今川軍は全長6キロにわたって展開しており、先頭の松平元康隊から、桶狭間山の今川本隊まで間延びしていました。しかも桶狭間山は西に進むも東に戻るも狭い、いわば死地でした。そこに織田信長が目をつけ、わざと丸根、鷲津の砦を攻めさせ、今川隊を分断した、いわゆる分断作戦とも考えられます。
ということで、今川側からはいきなり織田信長隊が現れたことから、奇襲作戦のようにうつったようですが、信長側は正面きって今川軍と戦ったということになります。
なぜ桶狭間の戦いは奇襲とされたのか
桶狭間の戦いが奇襲とされたのは、明治時代の陸軍参謀本部が戦国時代の各戦の研究をしていた時に、現在信長の研究の一級史料である「信長公記」ではなく、「信長記」や「桶狭間合戦記」といった江戸時代に書かれた史料を参考にし、桶狭間迂回奇襲説を唱えたからであると言われています。
やがて軍事の専門家がいうのだから間違いないと、その説が世間一般に広まって現在に至るというわけです。
最後に
このように、私たちが学校で習って当たり前であると思っていた事柄でも、歴史研究がすすめられるにつれて、当たり前では無くなるということは多々あることなのです。故に歴史は暗記科目ではなく、科学と同じ、研究科目であるのです。
今日も読んで頂きありがとうございました。
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