ルイス・フロイスという外国人宣教師がいる。
カトリック宣教師で戦国時代の日本で布教活動をし、実際に織田信長や豊臣秀吉と会っている人物である。本能寺の変があった時も近くの教会にいた。
そしてリアルタイムで信長や秀吉、光秀にも面識があったルイス・フロイスは「フロイス日本史」という著書を残している。
外国人目線で見た当時の実情が詳しく記されており、重要な史料として高い評価がされている。
明智光秀がどういう人物だったのかは様々な説があり、このサイトでもいくつかの説で記事にしているが、今回はルイス・フロイスから見た明智像に迫ってみたいと思う。
明智光秀は狡猾で冷淡な人物
「フロイス日本史」から明智光秀の人物像がわかりやすい箇所を抜粋していく。
信長の宮廷に十兵衛明智殿と称する人物がいた。その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。※以下ルイス・フロイス日本史より引用
頭がキレキレの人物で狡猾だが上へのおべっかは絶やさない。加えてよそものだったのでみんなから嫌われていたようである。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。
築城や建築に長け、計略家で統率力もあり指揮官としても優秀だが、裏切りや密会を好み、刑は残酷という嫌すぎる人物像である。
信長と光秀の関係性
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の国主に取り立て、信長がすでに破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った。
これを見ると信長が結構良い人間に見えてくる。
光秀は信長におべっかを使いまくり、時には嘘泣きまでする。そして裏では人を騙すための方法に長けていることを自慢し、まんまと騙された信長は光秀に多くの領地と財産を与えてしまう。
そして明智は坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。
周りから嫌われても気にせず処世術を駆使しまくり、ついには安土城に劣らぬほどの豪華絢爛な城まで作ってしまう。
信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いたが、権威と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。
もう信長がピュアな良い人物にしか見えなくなってくる。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ案件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智はなんらかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいはその過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。ともかく彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な時期をひたすら窺っていたのである。
有名な「信長が光秀を足蹴にした事件」であるが、これを見るとこの事件ですら明智の自作自演に見えてくる。他の説では「みんなの前で足蹴にした」という話をよく聞くが、フロイスによれば密室で二人きりだったということである。
ということは、この噂自体が光秀自ら広めたとしか考えられない。後々の陰謀のための布石だったのであろうか?
何を企んでいるかわからない恐ろしい人物像である。
「本能寺の変」直後についてのルイス・フロイスの記述
都の住人たちは、皆この事件が終結するのを待ち望んでおり、明智が、家の中に隠れている者を思いのままに殺すことができるので、その残忍な性格に鑑みて、市街を掠奪し、ついで放火を命ずるのではないかと考えていた。我々が教会で抱いていた憂慮もそれに劣らぬほど大きかった。
都の人たちだけでなく、外国人宣教師からも残忍と恐れられていた。
というのは、そのような市の人々と同様の恐怖に加え、明智は悪魔とその偶像の大いなる友であり、我らに対してはいたって冷淡であるばかりか悪意をさえ抱いており。デウスのことについてなんの愛情も有していないことが判明していたから、今後どのようになるかまったく見当がつかなかったからである。
光秀は悪魔崇拝者だったと言うのだ。
キリスト教圏の人から見ると大仏を拝んだりする姿は異教の偶像崇拝に見えるし、他の記述からも仏教のことを言っていたのはほぼ間違いないが、当時は光秀に限らず宗派は数多くあれどもほとんどが仏教徒だったはずだし、比叡山の焼き討ちは信長より光秀の方が積極的だったという説があるから、何か違うものを崇拝していた可能性も絶対にないとはいえない。
どのみち「悪魔とその偶像の大いなる友」とまで外国人に言わせる光秀は、信長よりはるかに恐ろしく映っていたのは間違いなさそうである。
司祭たちは、信長の庇護や援助があってこそ今日あるを得たのであるから、彼が放火を命じはしまいか、また教会の道具にはすばらしい品があるという評判から、兵士たちをして教会を襲撃させる意志がありはしまいかと、司祭たちの憂いは実に大きかった。
この記述にもあるとおり、信長は異教に寛容で庇護や援助をして宣教師たちには好印象だったことがわかる。
信長自身はキリスト教に傾倒したわけではないし、徹底した現実主義者の思想からキリスト教を擁護する判断をしたわけであるが、宣教師たちにとっては当時の最高権力者から布教の允許状(いんきょじょう)を貰えることはこの上ない喜びであっただろう。
それに比べて光秀がどれだけ恐れられていたのかが伺える。
だが明智は、都のすべての街路に布告し、人々に対し、市街を焼くようなことはせぬから、何も心配することはない。むしろ自分の業が大成功を収めたので、ともに歓喜してくれるようにと呼びかけた。そしてもしも兵士の中に、市民に対して暴行を加えたり不正を働く者があれば、ただちに殺害するようにと命じたので、以上の恐怖心からようやく元気を回復するを得た。
結局光秀は、教会を襲ったり街の焼き討ちなどはしなかったようだ。
ただ、これだけ恐れられている記述を見ると、世間に浸透している明智光秀の生真面目なイメージは、完全に間違っているように思える。
信長が性格的に激情型だったことはフロイスの他の記述でも触れられていて間違いなさそうだが、残忍で冷酷というのは明智光秀で、信長はどちらかというと寛容な人物だった可能性が高い。
本能寺の変の黒幕説でも、秀吉説、足利説、濃姫説、諸説あるが、フロイスによると野心と陰謀にまみれた明智光秀がそのまま起した事件ととらえているようだ。
フロイスによる人物の記述は他にもたくさんあるので、また機会あるときに紹介したいと思う。
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