祖父・島津忠良が評した4兄弟
島津家久は、その生涯において戦場で3人の大名級の武将の首級を挙げた類まれな武将です。
あの織田信長でさえ、今川義元1人であることを考慮すえば、これは特筆に値する武功です。
家久の祖父であり且つ「島津家中興の祖」と称された島津忠良は、孫である4兄弟を、
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」
と評したと伝わっています。
それぞれが秀でた才能を持った武将と評価しているのですが、この中で(家久は戦い方・用兵において優れている)と評された武将でした。
家久は天文16年(1547年)に薩摩守護であった、島津氏第15代当主・貴久の四男として生まれました。上の3人の兄は、義久が1533年生まれ、義弘が1535年生まれ、歳久が1537年の生まれとなっています。
只、上の兄たちは、父・貴久と正室の子であったのに対し、家久のみが側室の子であったそうです。
若き日の家久
家久の初陣は永禄4年(1561年)・15歳のときの肝付(きもつき)家との戦でした。
大隅の肝付氏との廻坂の合戦に挑み、初陣ながら敵の工藤隠岐守の首級を挙げたと伝わっています。
永禄12年(1569年)には、大口城に籠城した菱刈(ひしかり)氏とその援軍である相良氏の兵に対して、伏兵を配した戦術を駆使し、誘い込んだ大口城の兵の首級を136も挙げたと伝えられています。
また、家久自身が残した『家久君上京日記』によれば、天正3年(1575年)、自家の三州平定に神仏の加護を祈祷する目的で、伊勢神宮参拝のため上洛をしたことが記されたいます。家久らは連歌師・里村紹巴(さとむらじょう)の弟子である心前の家に宿を取り、京では紹巴を通して公家や堺の商人らとの邂逅、織田信長の行軍を見た様子、明智光秀に歓待を受け坂本城・多聞山城を訪れたことなどを記しています。
沖田畷の戦い
「沖田畷(おきたなわて)の戦い」は、家久が龍造寺隆信を討ち取った戦です。
「肥前の熊」との異名をとった龍造寺隆信は元は大友家に臣従していた武将でしたが、大友家の衰退に乗じて肥前から徐々に勢力圏を拡大、島津氏と九州の覇を競うまで台頭した存在でした。
天正12年(1584年)3月、現在の長崎県島原に有った武将・有馬晴信は、それまでの傘下であった龍造寺家からの離反を企図し、島津家に援軍を要請します。島津家はこの要請に応え、家久を総大将として島原へ兵を向けます。
しかし、島津軍は有馬晴信の兵を含めても約5,000人〜8,000人であったと伝わっています。一方の龍造寺軍は約18,000人〜60,000人とも言われており、正確な人数には諸説があるようですが、数的優位にありました。
家久は、兵数では圧倒的に不利な状況でしたが、大軍故の驕りを利用し、龍造寺軍を沖田畷と呼ばれていた狭い湿地帯へと巧みに誘い込みこむことに成功しました。これは兄の義久が考案した「釣り野伏せ」と呼ばれる島津得意の戦法でした。
弓や鉄砲の飛ビ道具を活用して敵の混乱を誘い、その間隙を突いて総大将である龍造寺隆信を討ち取り、寡兵で大軍を破る大勝利をもたらしました。
この勝利で島津家は、九州における最も強力な勢力であることを示しました。
戸次川の戦い
「沖田畷の戦い」から2年後の天正14年(1586年)。九州における最大勢力となった島津氏からの攻勢に対抗するため、自力で抗うことが出来なくなった豊後の大友宗麟は、中央を制した豊臣秀吉に救援を求めます。
この要請を受けた秀吉は、子飼いの武将・仙石秀久を大将として、秀吉に臣従した四国勢の長宗我部元親・信親、十河存保(そごうまさやす)らの約6,000人の軍勢を送り込みます。家久はこれらの軍勢を迎え撃ち、両軍で合計約4,000人もの犠牲者が発生する激戦となりました。
ここでも大名の十河存保、大名の嫡子・長宗我部信親らの首級を挙げ、これによって通算で3人の大名級の武将の首を戦場で挙げるという働きを見せました。
これにより豊臣軍は総崩れとなって仙谷秀久は退却、改めて秀吉・秀長の豊臣の大軍が九州を平定するまで、九州で最大で勢力の勢力を誇る大名として抵抗を続けました。
家久の死
家久は、島津4兄弟の中では最も早く豊臣秀長の軍と講和を果たしましたが、直後の天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死したと伝わっています。
享年41歳の死であることから、死因は諸説がありますが、豊臣方の書状において病死の旨の記述があることなどから病死が有力視されています。
ちなみに家久の息子である豊久は、世にいう「島津の退き口」を行って、関ケ原の戦いの際に大将だった義弘を戦場から脱出させた武将の一人です。
攻撃の戦法である「釣り野伏せ」と同様に、この退却時に用いられた「捨て奸」という戦法も、島津家特有のものとして知られています。
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