最も重要で、最も謎に満ちた聖遺物
イタリア北西部の都市トリノ。世界的な自動車メーカー「フィアット」の拠点であるこの地に、キリスト教史を語る上で欠かせない聖遺物が伝わっていることをご存じだろうか。イエス・キリストが磔刑に処せられた際、その遺体をくるんだと言われる「聖骸布」だ。
マタイによる福音書27章59節には、「ヨセフはイエスの亡骸を受け取り、きれいな亜麻布で包んだ」という記述がある。また、ルカやマルコの福音書にも同様、イエスの遺体を包んだ「亜麻布」が登場するのだが、果たしてトリノ大聖堂に眠る「聖骸布」が、その「亜麻布」なのだろうか。
長さ4.42m、幅1.13mの薄茶けた布地には、人体と思われる影がうっすらと浮かびあがっている。布半分には背面、もう半分には髭を生やした男性らしき顔を認めることができる。脇腹や重ねられた両手の辺りに見える染みはイエスの血痕なのか。聖骸布を巡っては、これまで数々の科学的検証がなされてきた。
近代における聖骸布研究
聖骸布の存在が広く世に知れ渡ったのは、1898年。アマチュア写真家セコンド・ピオによって撮影された写真が公開されたことがきっかけだった。教皇の影響力が衰退していた当時のバチカンは、不可知論に対抗できる恰好のチャンスとして、この出来事を好意的に受け止める。
さらに1931年、ジュゼッペ・エンリエが、より鮮明な写真を撮影したことで、真贋論争はさらに加熱。1978年には33人の科学者が集められ、研究プロジェクトが立ち上げられる。「STURP」と名付けられた、このプロジェクトには、物理学者や熱力学者のほか写真家も参加した。
この時、調査チームは、「聖骸布には顔料や染料などの跡は見えず、血液の染みは本物である」との最終報告を発表したものの、聖骸布上の画像が作り出された過程については結論を出すことができなかった。
終わることのない論争
STURPプロジェクトから時を経て、1988年。教皇庁は新たな方法による聖骸布の分析を認める。
ノーベル化学賞を受賞したウィラルド・リビーによって開発された放射性炭素年代測定だ。動植物に内在する炭素14を数えることで年代を特定する方法で、数万年前まで遡ることが可能と言われている。
この放射性炭素年代測定法を駆使した調査は、アリゾナ州立大学、オックスフォード大学、スイス連邦工科大学の3つの研究機関が実施し、大英博物館が監修。測定結果として「聖骸布が織られた時期は、1260年から1390年の間と考えられる」というショッキングな発表がなされた。
しかし、一部の聖骸布研究者からは、採取されたサンプルは亜麻布部分ではなく、中世の修復時に付けられた木綿部分だったのではないかという疑問も出ており、確証が得られたわけでないようだ。
度重なる分析で聖骸布の劣化を恐れたバチカンは、以来サンプルの採取を許可することはなく、「聖骸布はあるがままにあるべき」という立場を取っている。
聖骸布 を作ったのは、あの天才か
聖骸布に疑いを持つ研究者達の中には、放射性炭素年代測定の結果を踏まえた上で、聖骸布は写真技術が生み出された時期の作品だと考える者がいる。イギリス人研究者ケイト・プリンスは、卵の白身とクロム塩の感光乳剤に麻布を浸し、カメラ・オブスクラによって投影するという実験を試みている。結果、聖骸布によく似た画像を再現できたが、中世期それを実現できる技術力を備えた人物がいたかについては疑問視する向きも多い。
そこで初期写真術説を唱える者は、ルネサンス期に生きた偉大な天才レオナルド・ダ・ヴィンチならばカメラ・オブスクラでの投影は可能だと反論する。しかし、ダ・ヴィンチが生まれたのは1452年。聖骸布が発見された1350年代より一世紀ほど後になるため、信憑性は薄い。
明かされない真実の美しさ
聖骸布に浮かび上がった人物の顔を見て、これこそキリストだと感じてしまうのは、多くの西洋画に描かれてきたキリストの容姿と酷似しているせいだろう。緩やかに垂れる髪、口元を覆う豊かな髭。我々が思い描く、このようなキリストのイメージは、あるいは真実の彼の姿とは異なるかもしれない。
これまで、多くの研究者が聖骸布の真実に挑んできた。今後も、より精度の高い科学的調査が行われる可能性はあるだろう。
しかし、神秘をまとった数々の謎が強引に解明されてしまうより、「あるがままにある」聖骸布に、キリストのイメージを重ねていたい気がするのは私だけだろうか。
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