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毛利元就 とは
毛利元就(もうりもとなり)は、一代で安芸国の国人領主から中国地方をほぼ統一した戦国武将である。
知略に長け「謀神(ぼうしん)・稀代の謀将(きだいのぼうしょう)と呼ばれ、様々な策や危険を顧みない駆け引きを用いて大軍勢を打ち負かした。
息子たちに「3本の矢の話」をしたエピソードは有名で、3人の兄弟は結束を固めて毛利一族を守り抜いた。
織田信長の登場よりも40年近く前に現れた、西国地方の覇者・毛利元就について追っていく。
不遇の幼少期
毛利元就は明応6年(1497年)安芸国(現在の広島県安芸高田市)の国人領主・毛利弘元の次男として生まれる。
当時の安芸国は毛利家のような小領主が複数存在している状態で、その周りを取り囲むように勢力をもっていたのが、九州北部から山陽地方の大名・大内氏と山陰地方の大名・尼子氏だった。
毛利家のような小領主は生き残りをかけて大内家につくか、尼子家につくか不安定な状態にあった。
元就が生まれた頃には毛利家が従属していたのは大内家で、明応9年(1500年)頃には大内氏が先の室町幕府将軍・足利義稙を擁護したことで室町幕府派と反室町幕府派の争いに毛利家も巻き込まれてしまう。
父・弘元は嫡男・毛利興元に家督を譲って隠居し、幼かった元就は父に連れられて多治比猿掛城に移り住んだ。
明応10年(1501年)元就4歳の時に母が死去し、永正3年(1506年)元就が10歳の時に父が酒毒で死去してしまう。
その後、兄の興元が上京し留守を任された際に、後見役の家臣井上元盛に家禄と城を奪われてしまい、元就は城を追い出されて孤児となり「乞食若様」と言われるほどの貧乏生活を送ることなる。
そんな元就を不憫に思った父の継室・杉大方が元就を引き取って養育をしたという。
杉大方のもとで成長した元就は、永正8年(1511年)に元服した。
初陣「有田中井出の戦い」と家督相続
永正13年(1516年)元就19歳の時に兄・興元が急死している、原因は父と同じ酒毒であった。
毛利家の家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、まだ2歳であったために後見人には元就がついた。
主君が2代に渡って急死し毛利家家中が動揺していると、永正14年(1517年)佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻する。
吉川家は元就の母の家系であり、毛利家と吉川家は同盟関係であったために、幼い幸松丸に代わって元就が吉川家のために武田軍と戦うために出陣した。
この「有田中井手の戦い」は元就の初陣であり、武田軍は5,000の軍勢で、対する元就の軍勢は1,200~2,000だったという。
武田元繁は中国の項羽と並び称されるほどの猛将で、若年で初陣の元就は圧倒的不利と見られていた。
しかし、初陣にもかかわらず元就は武田軍の先鋒で猛将として有名な熊谷元直を討ち取り、敵の大将・武田元繁も討ち取って圧倒的不利な戦いに勝利した。
この戦いは後に「西国の桶狭間」と呼ばれ、元就の名は広く知られるようになった。
その後、元就は後見人として尽くし、大内家から尼子家と従属先を変えながら戦に出向き、毛利家存続のために奮闘し毛利家家中での信望を集めた。
大永3年(1523年)元就27歳の時に幸松丸がわずか9歳で亡くなってしまう。
分家の人間であったが毛利家直系男子である元就が毛利家の家督を継ぐことになった。
勢力拡大
この当時、毛利家は尼子についていたが、毛利家の家督相続を巡って毛利家の有力な家臣が尼子経久と結び、元就の家督継承に反対した。
そのために尼子と徐々に距離を置くようになり、元就は大内義興の傘下に入り、元就は安芸と備後両国の軍事を指揮するようになった。
享禄2年(1529年)元就は、亡くなった幸松丸の母の実家でありながら尼子についた安芸石見の領主連合率いる高橋一族を、大内軍などの協力を得て滅ぼした。
これにより安芸から石見までの広大な領地を手にした。
天文4年(1535年)元就は隣国の備後・多賀山通続を攻めて降伏させた。
大内に従属していたためにその配下ではあったが、事実上、安芸・備後・石見の盟主という地位と広大な領土を手に入れた。
毛利家 家臣団
元就の家臣団は武田信玄の家臣団と似ていて、国人衆という半ば独立した集団を組織化していた。
元就が毛利家の家督を継いだ時には所領は狭く、現在の広島県安芸高田市吉田町付近の限られた範囲であった。
毛利家が存続してこられたのは、元就が家督を継ぐ前からの国人衆がいたからだ。
元就が頼りにしていた国人衆には、桂元澄・国志元助・志道広良・井上元兼・福原広俊らがいて、元就は国人衆とお互い共存できるように対等な関係で約束を交わしていたために、安芸・備後・石見と勢力を拡大することができたのだ。
第一次月山富田城の戦い
大内家の支配下のもとで勢力を拡大した元就を快く思わないのが、尼子家である。
尼子家は尼子経久が隠居し、嫡男の政久が急逝したため、孫の晴久が家督を継いでいた。
天文9年(1540年)尼子軍30,000の兵が、元就の居城・吉田郡山城に進軍を開始する。
しかし、元就は3,000ほどの兵で籠城して迎え撃ち、国人衆らと大内軍の援軍によって勝利した。
翌年、尼子の支援を受けていた安芸武田家を滅ぼし、かれら傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
天文11年(1542年)大内義隆を総大将とした尼子を攻める、第一次月山富田城の戦いに元就も従軍した。
この戦いは吉川興経らの裏切りや、尼子の所領奥地に侵入したことなど、補強路と防衛線が寸断されてしまい苦戦を強いられた。
元就も富田城塩谷口を攻めたが敗れてしまい、大内軍は敗走。
元就は殿(しんがり)を命じられるが、尼子軍の追撃に一度は死を覚悟するほど追い詰められる。
この時、家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、わずか7騎で囮となり奮戦し討死。元就は撤退に成功し九死に一生を得たと伝わっている。
この働きで渡辺家は後も代々重用され、長州藩になっても正月の儀式は渡辺家が先頭だったという。
毛利両川体制
大内義隆の支配下で盟主の座を固めた元就であったが、本当の意味での国主ではなかった。(※殿を命じられ命からがら逃げてきたという現状)
そこで元就は大内からの独立を決意するが、今の状態では大内や尼子に狙われるのは必定であった。
そこで元就が考えたのは、周辺の有力な国人領主を懐柔して自分の手中に収めることだった。
天文13年(1544年)元就は強力な水軍を抱える小早川家の養子に三男・徳寿丸を出した。
小早川家の家臣団から養子の強い要請があり、まだ幼かったために一度は断っていた。徳寿丸は後に小早川家の家督を継いで「小早川隆景」と名乗った。
天文15年(1546年)元就は隠居を表明し嫡男・隆元に家督を譲ったが、名実上の実権はほぼ元就が握っていた。
天文16年(1547年)元就は吉川家の内部分裂に目をつけ、次男・元春を吉川家の養子に送り込んだ。
元春は吉川家の家督を継いで「吉川元春」と名乗った。
これにより元就・隆元の毛利家は安芸・石見に勢力を持つ吉川家と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持ち水軍がある小早川家を取り込み「毛利両川体制」を築き、大内や尼子に引けを取らない新勢力の毛利家が誕生した。
厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
そんな中、毛利両川体制によって基盤を固めた元就に、思いもしない知らせが舞い込んだ。
天文20年(1551年)大内義隆が家臣・陶晴賢(すえはるたか)の謀反にあって殺害され、陶晴賢が大内の実権を握ったのである。
これに乗じて元就は、旧安芸武田家の領地を奪取して傘下に入らない国人衆らを粛清し、勢力拡大に動いた。
これに危機感を抱いた陶晴賢は、元就から国人連合の長の座を奪おうとしたために両者の関係は悪化。
天文23年(1554年)陶晴賢は元就に内乱の出兵を要請したが、元就はそれを拒絶したために両者の戦いは避けられなくなった。(※防芸引分)
陶晴賢率いる大内軍30,000に対して元就軍は4,000~5,000であった。正面からぶつかれば勝算はない、そこで元就は得意の謀略を使って大内・陶の内部分裂を画策し弱体化を謀り、陶の重臣が殺害されている。
その後、陶晴賢の命を受けた宮川房長3,000の兵が毛利攻撃を開始したが、元就はこれを奇襲で打ち破った。(※明石口の戦い)
弘治元年(1555年)陶晴賢は自分で大軍を率いて山口を出発し、毛利側の交通と経済の要所である厳島に築かれた宮尾城を攻略しようと厳島に上陸した。
しかしこれは元就の謀略であった。
元就は「厳島にある宮尾城は無防備で、今攻撃されるとひとたまりもない」と嘘の噂を流した。
宮尾城は単なる砦の一つに過ぎず、陶の大軍20,000を狭くて身動きの取れない厳島におびき出す策だった(※実際に上陸した陶軍は1万未満だったという説もある)
また、陶との戦いを見据えて、厳島の戦いの1年ほど前に毛利一族の宍戸隆家の娘を村上水軍の来島村上家に嫁がせて、村上水軍を味方につけていた。
緒戦は陶軍が有利に展開したが、暴風雨に乗じて毛利軍は海を渡り、厳島の陶軍を背後から強襲。
不意をつかれた陶軍は敗走し、追い詰められた陶晴賢は自刃した。(享年35)
もし、陶軍が陸路から毛利軍を攻めていれば圧倒的に有利だったはずだが、元就の謀略にまんまとかかってしまったということである。
弘治3年(1557年)元就は大内家の内紛に目をつけ、当主・大内義長を討ち大内家を滅亡させた。
これによって大内家の九州を除く長門国(現在の山口県北西部)と周防国(現在の山口県東部)を支配下に置き、毛利家は大大名となった。
※厳島の戦いは陶晴賢と村上水軍の戦いであり、毛利家は漁夫の利を得ただけという説もある。
第二次 月山富田城の戦い
永禄3年(1561年)尼子晴久が急死すると元就は尼子(出雲)への攻撃を開始する。
晴久の跡を継いだ尼子義久は難攻不落の名城「月山富田城」に籠城し、毛利軍を迎え撃った。
永禄6年(1563年)元就は尼子の支城である白鹿城を攻略したが、毛利家当主の嫡男・隆元をが急死してしまう(※突然の謎の腹痛によるものだが尼子氏の調略で暗殺された疑いがあり、元就は和智誠春ら疑いのある者を後に誅殺している。)
家督は隆元の嫡男・幸鶴丸(後の輝元)が継いだが、11歳であったために元就が後見となった。
永禄8年(1565年)元就は輝元と共に出雲へ出陣し、月山富田城を包囲して兵糧攻めにした。(第二次月山富田城の戦い)
元就は以前に敗北を喫した教訓を活かし、無理に月山富田城を攻めなかった。
第二次月山富田城の戦いには約4年の歳月をかけ、当初は兵士の降伏を許さず投降した兵を皆殺しにして見せしめにしていた。
これは月山富田城内の食糧を早々に消耗させるための計略であった。
尼子の内部分裂を誘うために嘘の情報を流し、尼子義久は疑心暗鬼になり、私財を投げ売って兵糧を調達していた忠臣・宇山久兼を殺害してしまった。
元就は冬になると、今度は投降を認める立札を立て粥の炊き出しを行い、精神的な揺さぶりをかけた。
立札を見た尼子軍の兵士たちは雪崩を打ったように投降し、永禄9年(1566年)11月、君主の尼子義久もついに降伏し尼子家は滅亡した。
これにより元就は一代で、毛利家を中国地方8ヶ国に渡って支配する大大名へと成長させたのである。
毛利元就の晩年
永禄10年(1567年)元就は輝元が15歳の時に隠居しようとしたが、輝元に懇願されて隠居を断念し二頭体制を続けた。
その後、尼子の残党を率いた山中幸盛(鹿介)が、3度も尼子復興軍を結成し毛利家に抵抗(3度目は織田信長の支援を受けて)、大内の一族である大内輝弘が豊後・大友宗麟の支援を受けて攻め込むなど、残党の抵抗に悩まされた。
しかし、吉川元春・小早川隆景らの働きで大友家と和睦し、尼子の残党を撃破した。
永禄9年(1556年)この頃から元就はたびたび体調を崩してしまう。
一時は回復するも、永禄12年(1569年)元就はまた体調を崩してしまい、この年の立花城の戦いを最後に出陣はしていない。
元亀2年(1571年)6月14日、元就は吉田郡山城で激しい腹痛を起こして死去した。
享年75歳、死因は老衰とも食道ガンとも言われている。
三本の矢
毛利元就の逸話と言えば「三本の矢」の話が有名だ。
死の間際に3人の兄弟(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)を枕元に呼び寄せ、矢を1本ずつ渡して「折ってみなさい」と促す。
当然1本では簡単に折れるが、3本の矢ではなかなか折れない。このように「兄弟3人で力を合わせればどんな困難も乗り越えられる」とした話である。
しかし、長男・毛利隆元は元就よりも早世していることから、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状「三子教訓状」に由来する創作であるとされている。
人物としてはいつも餅と酒を用意し、身分の低い者にも声をかけて振る舞ったという優しい人物であったという。
父と兄を酒毒で亡くしているため、毛利家の当主の一族が酒に弱いと考え、自身も酒は飲まずに下戸で通し、息子たちには節酒を説いて孫・輝元の母に酒は1杯か2杯にしろと細かく指示を出している。
モットーは一族団結であり、元就が書いた「三子教訓状」は約3mの長さの書状で14の心構えが書かれ、内容は一族の団結についてであった。
もう一つ有名なモットーは「百万一心」である。
毛利家の居城・吉田郡山城の改修工事に際し、安芸の領民は「工事の無事を願って」娘を人柱にしょうとしたという。
それを聞いた元就は娘の代わりに石柱を埋めるように命じた。
その石柱に刻まれていたのが「百万一心」という文字で、縦に読むと「一日一力一心」と読めるように刻んであった。
元就は「何も娘の命を奪わなくても、一日一日を一人一人が心を一つにして働けば工事はうまくいく」と訴えた。
これは集団が一致団結すれば、より大きな力を出せるという意味である。
毛利元就の知略
毛利元就と言えば、数々の知略・謀略を用いたことが有名であるので、幾つか紹介する。
元就が家督を継いだ頃の毛利家は小国の国人領主であったために、敵の家臣団や一族の仲たがいを利用して「嘘の情報」を流し、疑心暗鬼を掻き立て内紛を起こさせている。
元就は「謀多きは勝ち、少なきは負ける」という言葉を残している。
1541年の安芸武田氏との「佐東銀山城の戦い」では、元就は農民たちに1,000足の草鞋(わらじ)を用意させ、それを油に浸して火をつけて、夜間に城へ続く川に投げさせた。
敵が大軍が攻めてきたと勘違いをして慌てると、その隙に裏側から毛利軍が攻め込むという奇策を用い勝利したという。
前述した厳島の戦いでは、元就は陶晴賢軍との圧倒的な兵力差に頭を悩ませていた。
そこで陶の家臣・江良房栄に目をつけ、彼が「謀反を企てている」という嘘の情報を流し、筆跡を真似て内通を約束した書状も偽造した。
それにより陶軍では内乱が起こり、江良房栄は殺害されてしまった。この戦いの詳細は前述の通りである。
尼子を破って中国地方の覇者となったが、元就は「天下を競望せず」と語り、自分の代ではこれ以上の勢力拡大を望まなかったという。
北九州には野望があり大友宗麟と争ってはいるが、自分の器は中国地方制覇だと感じていたのかもしれない。
元就は天下統一は望まず、毛利家一族の存続を望んでいた。
おわりに
元就の没後、毛利家は織田信長と敵対し、毛利・吉川・小早川の毛利家一族は信長の命を受けた豊臣秀吉に苦しめられる。
小早川隆景は軍師として、吉川元春は軍事力で毛利輝元を助け、毛利元就の「3本の矢」を実践した。
信長の死後、台頭してきた豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は、豊臣政権の五大老に就任する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは毛利輝元は総大将となって徳川家康と対立したが、敗軍の将であるにもかかわらず長州藩として毛利家の存続を許された。
毛利元就の教えを守った長州藩は幕末に徳川幕府を倒し、明治維新を成功させ近代日本の多くのリーダーたちを生んだのだ。
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