大奥と吉原
江戸時代で有名な女の園として、徳川幕府の世継ぎを作るための女の園「大奥」と、幕府公認の遊廓「吉原」があった。
今回は、一般庶民とは異なる女の園「大奥と吉原」、その二つの場所の年の暮れについて調べてみた。
大掃除
年の暮れ、大奥でも現在でいう忘年会のようなものが行なわれ、大掃除も毎年12月13日に行われたという。
吉原でも大掃除にあたる「すす払い」が行われ、すす払いの2日前から掃除用具一式を揃え、大奥と同じ12月13日に行われたが、遊女ではなく遊廓の世話をする男衆たちや、遊女の馴染み客が大掃除の手伝いに来たという。
手伝いの数は遊女の人気に比例し、中には見栄を張るために事前に手伝いを頼んだ遊女もたくさんいたという。
しかし、遊女は来てくれた馴染みの客に遠慮せずに、あれやこれやと掃除の注文をしたそうだ。
普段、掃除などしたこともない旦那衆たちが手伝ったというのだから、遊女たちもなかなかのやり手である。
年末になると大奥に賄賂
大奥の中で位の高い地位にいた者には、12月15日を過ぎると諸大名や御用商人から高価な「付け届け」が贈られて大奥はごった返したという。
大奥で位の高い者は、時に表の政治にも絡む力を持っており、今で言う賄賂が贈られていた可能性は高い。
江戸時代、武家社会では盆暮れや節句になると贈り物をするというのは当然の風習で、それを行うことで相手に何か見返りを求めるのも当たり前であった。
現代の賄賂という感覚ではなく、贈る側も貰う側も堂々と行っていたので今のお歳暮のような感覚であったようだ。
大奥のトップにあたる「御年寄」には相当な量の付け届けが贈られたために、自分の部下や下層の者たちに渡して自分の権力と名声を高めるのに使ったようだ。
また、一方では「付け届け」の品物を現金化してくれる専門の業者がいて、その業者を呼びつけて現金化すると多い時は高い年収(年間約1,500~2,000万円)を超えることもあったというのだから、相当な量の良い物が贈られていたということになる。
奥女中のお宝争奪戦とは
大奥では雪が積もった日に「雪中お投げ物」という、お宝争奪戦が行われた。
上級奥女中たちが、雪が積もった中庭にお菓子や反物をまるで池の鯉にエサを投げるように品物を投げ、これを最下級の奥女中(御末や御半下と呼ばれる下女)たちが必死になって拾ったという。
御末・御半下たちにとってこの行事は何よりの楽しみであり、年の暮れの一大イベント、その品物に「付け届け」の品物が使われたとされている。
大奥の大晦日(節分)
「鬼は外、福は内」という節分の豆まきであるが、昔は季節の分かれ目、特に年の分かれ目に邪気が入りやすいと考えられていた。
江戸時代は旧暦で元日が立春だったため、節分の豆まきはその前日の大晦日(おおみそか)に行われていた。
豆まきは室町時代に始まり、江戸時代になると庶民の間にも定着した。
節分の豆をまくのは正月の行事を取り仕切る男性の役目で、一般にはその家の家長が務めた。
大奥でも節分の豆まきは行われていたが、大奥は男子禁制の女の園である。
そこで御留守居役という男性役人が豆まきの役を務めたが、なんと豆まきの後に選ばれた男性(御留守居役)は身動きが取れないように布団でグルグル巻きにされてしまい、そのまま胴上げをされて大奥の女性たちにモミモミと身体中を触られまくったそうだ。
この布団でグルグル巻きの胴上げは大奥だけの風習で、奥女中たちが日々のうさを晴らす日でもあったという。今で言うドM男性にはたまらない風習だったと言えよう。
吉原の大晦日
吉原でも、大晦日の節分の豆まきは店の男衆が行っていたが、吉原では大晦日は「紋日(もんび)」という特別な日で、1月1日と7月13日の年に2日だけ大門を閉じ、遊廓は一斉休業していた。
そこで大晦日はお客が遊女を1日買い占めて、吉原の遊女に支払うお金も普段の倍の料金がかかった。
普通でも床入り前には宴会をしなくてはならず、そこに呼ぶ芸者や食事代も別にかかり、世話をしてくれる者たちへのチップなども含めて、1回で今の価格で100万円を超えることもあったという。
実は紋日という特別行事の日は1年に何日もあり、当初は年に25日ほどであったが徳川吉宗の享保時代には85日ほどにもなり、紋日になると揚代も倍になるのでお客にとってはたまったものではなく、ついつい足が遠のいてしまう。
しかも客がつかなかった遊女はその日の揚代を自己負担しなくてはならず、遊女たちは必死に馴染みの客に紋日に来てくれるように頼み込んだという。
そのため、暮れの大晦日に吉原を訪れたお金のある馴染み客は、普段以上に盛り上がったそうだ。
大晦日にツケ回収
江戸時代は掛け売り、いわゆるツケ払いで買い物をすることが多く、商人は大晦日にツケを回収するため家々を回った。
当然、吉原でもツケの回収が行われたが、それは客ではなく遊女に対してであった。
吉原の遊女のほとんどは、幼い頃に家の借金のために10年の年季奉公ということで売られてきた娘たち。
年季が明けるまで様々なもの(衣装代や布団代など)を店から借り、それもツケで借りるために大晦日の支払いは大変であった。
お金を払える遊女は少なく、暮れになると遊女たちは馴染みの客にお金の無心をする「無心状」という手紙を送ったという。
大晦日には馴染み客から贈られた布団を並べるという見栄の張り合いも行われ、大晦日の風物詩となった。
大奥の新参舞
大晦日の夜、大奥では「新参舞(しんざんまい)」という、裸踊りのようなものが行なわれていた。
「新参舞」が行われたのは大奥の台所である「御膳所(ごぜんしょ)」で、この年に入った新参者の御末たちが集められた。
上級奥女中たちが見ている中で、腰巻一枚という姿で踊らされた。ほとんどが上半身裸で踊らせられ、近くには古参の下級奥女中たちが控えており、鍋などを叩きながらはやし立てた。
この奇妙な風習が始まったきっかけは、「彫り物をした奥女中が見つかり、それを防止するために始まった」「生娘かどうか確認するため」など諸説ある。
他には、大奥では年越しの支度が終わった寝る前に「福茶(ふくちゃ)」と呼ばれる昆布・黒豆・梅干しなど縁起の良いものを入れたお茶を飲んだという。
おわりに
12月13日の大掃除から年末の行事や新年の準備など忙しかった大奥や吉原には、庶民には縁のない独自のイベントや風習があった。
男子禁制の大奥では普段のうっぷん晴らし、吉原では1日貸し切りの大宴会と見栄の張り合い。
このようなことをして江戸の女の園「大奥と吉原」では新年を迎えたのである。
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