よく「世が世なら、立身出世して名を残せただろうに……」などと言いますが、自分の不遇(と言うほどではなくても、思ったより成功できていない状態)を時代のせいにする手合いは、何も現代に限ったことではなかったようです。
歴史を見ると、相当の能力を持っていながら、あまり認められないまま世を去っていった者も少なくありません。
今回はそんな一人、江戸時代の剣豪・一戸三之助宗明(いちのへ さんのすけむねあき。以下、三之助)のエピソードを紹介したいと思います。
武芸十八般を究め、弘前藩の武芸師範に
三之助は天和元年(1681年)、陸奥国弘前藩(現:青森県西部)に誕生。幼少時から武芸に学び、成長して武芸十八般(※)を学びました。
(※)流派などによって諸説ありますが、一般に弓術・馬術・水練・剣術・槍術・薙刀・居合術・柔術・小具足・棒術・杖術・鎖鎌術・分銅鎖・砲術・十手術・隠形術・手裏剣・捕手術などの武術を言います。
中でも弓術・居合術・剣術にすぐれ、弓術は石堂竹林派(いしどうちくりんは)、居合術は林崎新夢想流(はやしざきしんむそうりゅう)、剣術は當田流(とうだりゅう)をそれぞれ究めたと言います。
そんな達人でしたが、三之助は身長が五尺(約1.5m)足らずと低く、それに対して人並外れて長い大刀を差したものですから、鐺(こじり。鞘の先端)が地面を引きずらぬよう、車輪をつけていたそうです。
低い背丈に長い刀、鞘の先端にはコロコロと回る車輪……そのユーモラスな姿は人々から笑いの的にされたそうですが、その腕前は確かなもので、弘前藩主の津軽信政(つがる のぶまさ)、津軽信寿(のぶひさ)に仕えて武芸師範を務めました。
歯に衣着せぬ物言いで……
普通ならこれだけでも十分に凄いのですが、志の高い三之助は満足できなかったようで、常々
「戦国乱世に生まれておれば、この腕前で一国一城の主も夢ではなかったろうに……!」
などと嘆いたそうです。
しかし、こういう態度は往々にして周囲の反感を買うもので、藩主でさえも武芸を教わっている手前、面と向かって否定するのは気が引けるものの、一国一城の主とはつまり独立であり、主君への不忠とも解釈できます。
「あやつめ、武芸を恃みに驕りおって……」
また、こんなやりとりもあったそうです。
藩主・津軽信寿が「當田流剣術の奥義を見せて欲しい」と頼んだところ、三之助は「殿はまだその段階ではありません」とキッパリ。
いくら何でも言い方ってモノがあるだろう……同僚の一人が三之助を諫めた(というより、遠回しに非難した)ところ、三之助は
「別に意地悪で言っているのではなく、我が師からそのように厳命されているのだ。主君といえども當田流の門人となった以上、ご機嫌とりで戒めを破る訳にはいかない(意訳)」
【原文】
一戸三之助宗明ハ浅利均禄ノ弟子ナリ。武藝ノ達人、殊ニ當田流剣術ヲ以テ名ヲ得ル。信寿公ノ近臣タリ。公、師トナス。公未熟ニシテ其ノ極ヲ見ント誘フ。宗明對シテ曰ク、公ノ習練未ダ熟セジ。命ト雖ドモ奉ジガタシトス。公止ム。或ル人一戸ニ諫メテ曰ク、子何ンゾ命ニ背クヤ。一戸曰ク、吾レ何ンゾ命ヲ背カン。其ノ極ニ及バザル者許スベカラズト先師ノ戒メナリ。吾ガ謂フトコロニアラジ。公、今之ヲ先師ニ習ヒテ臣唯コレヲ傳フル者ナリ。然レドモ、先師ノ戒メヲ敗リテ私ニスル者ハ諂ウナリ。君今誤レリ。臣コレヲ正シ、吾レ何ンゾ命ヲ背カン乎。※『富田流剣術濫觴拾書(とうだりゅうけんじゅつらんしょうひろいがき)』より
「「「あやつは主君を何と心得るか、もう我慢ならん!」」」
歯に衣着せぬ三之助の傲慢ぶりに腹を立てた重臣たちは、とうとう三之助に十年間の座敷牢を申しつけます。
「……まぁまぁ、あれほどの達人であるから、閉じ込めてしまうのは惜しいではないか……」
という信寿の温情によって三之助は解放され、茂森町(しげもりまち。現:青森県弘前市)に道場を開かせ、広く武芸を教えさせたそうです。
自分の墓を自分で作る
さて、数十年にわたり弘前藩の人々に武芸を教え続けた三之助ですが、やがて死期を悟ると自分の墓を自分で作り、その中で生活するようになります。
「師匠、何やってんすか」
元から変な人とは思っていたけど……呆れたことに、墓の隣には自分の功績を刻んだ石碑まで用意していました。
「こういうのって、普通遺族とかがやるんじゃ……」
「うるさい!お前たちに何がわかる!弘前が生んだ偉人・一戸三之助の功績を後世に伝えるのじゃ!」
「はぁ、さいで(……自分で言うなよ)」
それから間もなく亡くなった……訳ではなく、墓の中で暮らすようになってから7年後の宝暦3年(1753年)、73歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
【原文】
……又、老ヒニ及ビ自ラ墳墓ヲ築キ、碑銘ヲ作リ、以テ死ヲ待ツコト七年ニシテ終ル。一世英雄ナリ。※『富田流剣術濫觴拾書』より
終わりに
ところで、三之助が生前よく言っていた「戦国乱世に生まれていれば……」ですが、彼が戦国時代に生まれていても、武芸の腕前だけで立身出世を果たすのは難しかったのではないでしょうか。
戦国時代と言えば、とかく腕っぷしだけがモノを言ったイメージを持たれるものの、戦さは武力だけで勝敗が決まるものではなく、また戦さばかりしていた訳でもありません。
百姓の倅から天下人にまで成り上がった豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)を見れば判る通り、自分一人の能力よりも人材を確保・活用する方が重要であり、それは(ごく一部の天才を除き)いつの世であっても変わらないものです。
「戦国時代だったら……」「幕末だったら……」などと生まれた時代の「ないものねだり」をするよりも、自分が今どういう時代に生きていて、この時代が何を求め、自分がどう応えられるのかを考える方が、より有意義に人生を送れるのではないでしょうか。
※参考文献:
結城凛 編『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月
太田尚充『弘前藩の武芸文書を読む 林崎新夢想流居合・宝蔵院流十文字鑓』水星舎新書、2010年2月
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