鎌倉殿の13人

ただの遊び人じゃない?頼朝公の挙兵を助けた悪友・藤原邦通のエピソード【鎌倉殿の13人】

鎌倉文士(かまくらぶんし)と言えば、明治時代から昭和中期に鎌倉にゆかりのあった文豪たちをイメージするかと思いますが、かつては頼朝公に仕えた文官たちを、武士に対して文士と呼んでいました。

頼朝公の政権が全国の武士たちを統治する幕府として確立するには、行政システムを構築し、実務を担当する文士たちの存在が不可欠でした。

今回はそんな鎌倉文士の一人・藤原邦通(ふじわらの くにみち)を紹介。これがまた面白いヤツなんです。

元は京都の遊び人、身を食う芸が身を助ける

藤原邦通の生年や出自は不詳、元は京都の遊び人だったと言われます。

通称は藤判官代(とうのほうがんだい)。大和(やまとの)判官代と呼ばれている事から、過去に大和国(現:奈良県)で土地管理や年貢の徴収などを担当していたことがあるようです。

それが何をしでかしたのか、各地を放浪している内に小野田盛長(おのだ もりなが。安達盛長)の推薦で頼朝公に仕え、居候のように転がり込みました。

邦通「ちーっス、藤判官代で~す!」

頼朝公「……何ともふてぶてしいヤツだな」

盛長「でも、何だか憎めないでしょう?」

邦通「そーっスよ、佐殿(すけどの。頼朝公の通称)、これからヨロシクおなしゃーッス(お願いします)!」

昔から「身を食う芸が身を助ける」とはよく言ったもので、邦通は文筆や絵画、占いや歌舞音曲など多彩な才能を発揮、そこはかとなく漂う京都の香りが、伊豆の僻地に流された頼朝公の慰めとなったのかも知れません。

「おう大和の、ちょっとこれ(文書)書いといて」

「はいよっ」

頼朝公の居候、もとい右筆を務めた邦通(イメージ)

こうして食客となった邦通は頼朝公の右筆(ゆうひつ。文書の代筆者)を務めていましたが、家来と言うよりちょっとインテリな友達感覚だったのでしょう。

悪友、もとい他の家来たちと一緒に遊んだりナンパしたり、頼朝公の気ままで楽しい?流人時代を彩ったのかも……と考えると、面白いですね。

敵の屋敷に堂々と潜入、見取り図を描き上げる

さて、そんな邦通が初めて大活躍するのは頼朝公が挙兵する直前の治承4年(1180年)8月。第一のターゲットに定めた伊豆の目代・山木兼隆(やまき かねたか)を撃破するべく、その屋敷の見取り図を書いたのでした。

「ちょっと行って、見て来ますよ」

邦通がどうやって山木兼隆の屋敷へ潜入・偵察したのかと言うと、堂々と正門から入って、

「宴会中ですよね?私もまぜて下さいな!」

既に頼朝公が挙兵する噂は広まっており、その身内?である邦通が行ったら、すぐさま捕らえられそうなものですが、兼隆らも(頼朝公の謀叛を)本気にしていなかったのでしょうか。

あるいは他人の警戒心を解かせてしまう天性の人誑(たら)しだったのかも知れません。

「おぉ、藤判官代か。入れ入れ!」

「どもども、藤判官代で~す!Let’s パーリーウェ~イ!」

多芸多才な邦通は宴会でも人気者となり、かくして滞在すること数日間、隙を見ながら兼隆の屋敷を詳細に書き記したということです。

「……凄いな。ここまで芸術的に仕上げなくてもよかったんだけど……」

「まったく、才能のムダづかいですな」

山木兼隆討伐に乗り出した頼朝公。「頼朝一代記絵巻」より

ともあれこの見取り図を元に防御の手薄な所を衝いた源氏方は、無事に初勝利をつかみとったのでした。

このエピソード、とてもハラハラ手に汗握りそうなので、もし尺が許すのであれば、是非とも大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描いて欲しいものです。

エピローグ

その後も頼朝公の右筆ほか、政務を担当する公事奉行人、頼朝公の側近く仕える供奉人を務めるなど、鎌倉政権の屋台骨を支え続けます。

邦通が『吾妻鏡』から姿を消すのは、挙兵から十数年の歳月を経た建久5年(1194年)8月8日、木曾義高(きそ よしたか。志水冠者)の追善供養。

頼朝公の愛娘である大姫(おおひめ)の許婚でありながら頼朝公によって謀殺され、そのショックで大姫は病床に伏してしまっていたのでした。

「……あれは仕方がなかったンだ。姫様を傷つけてしまって辛いのは解るが、後悔なんてしたら、誰よりも殺された当人が浮かばれねぇ」

「そうだな……」

伊豆の流人から紆余曲折の末に鎌倉殿と担ぎ上げられ、果てには平家や肉親を含むライバルたちを蹴散らして、謀略と流血の果てに武家の棟梁となった頼朝公ですが、それは心から望む結果だったのでしょうか。

最愛の義高を父に殺され、病床に伏す大姫。菊池容斎『前賢故実』より

「後からだったら、誰でも好き勝手なことが言える。でも、あの日あの場で駆けずり回っていたのは、他ならぬ俺たちだ。だからどんな結果も、胸を張って受け入れろ」

「……そうだな」

「そうとも。それでこそ、俺たちの鎌倉殿ってモンだ」

邦通がいつ、どのように亡くなったのかについて、『吾妻鏡』は何も記録していませんが、恐らく人知れずひっそりと病死したのでしょう。

「あぁ、また昔みたいに、みんなで遊び回りたいなぁ……」

頼朝公の挙兵から武家の棟梁に上り詰めるまでを見届けた悪友の死によって、幕府草創の熱狂は次第に冷めていくのでした。

令和4年(2022年)放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に藤原邦通が登場するかはまだ分かりませんが、是非とも活躍させて欲しいところです。

※参考文献:

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【鎌倉殿の13人】立場?そんなの関係ねぇ!京都洛中で喧嘩に加勢し…
  2. 武衛は必見?第15回放送で非業の死を遂げた上総介広常。その子孫た…
  3. 【鎌倉殿の13人】幕命よりも身内の絆…宇都宮頼綱を守った小山朝政…
  4. 矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか? 「三浦氏の血を存続…
  5. 巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか? 【鎌倉殿の13人】
  6. なぜ源義経は頼朝の命令に逆らって短期決戦に臨んだのか?
  7. 泣く子も黙る三浦悪四郎!たかお鷹の演じる老勇者・岡崎義実の生涯【…
  8. 【鎌倉殿の13人】最初はちょっと頼りないけど…瀬戸康史が演じる北…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【秀吉死後の家康の身勝手な行動】 家康の天下取りへ向けての2年間 〜前編

徳川家康は、全国の大名が東軍と西軍に分かれて争った「関ヶ原の戦い」に勝利し、江戸に幕府を開いた。…

大老がなんと江戸城内で殺された 「稲葉正休事件」

桜田門外の変以前の刃傷事件幕末に幕府のNo.2である大老が殺された「桜田門外の変」は、将…

本気で卑弥呼の墓を探してみた! 纏向古墳群の6つの古墳 第1回 【大王墓の謎に迫る】

エピローグ邪馬台国女王・卑弥呼が没したのは、西暦248年とされています。では、卑…

十八地獄について調べてみた 「そもそも地獄とは一体なにか?」

そもそも地獄とは一体なにか?迷信や言い伝えは、子供を怖がらせていたずらをさせないために使…

シリーズ最高傑作『三國志13』の楽しみ方 ~キャラゲー編~

シリーズ30周年に相応しい最高傑作プレー歴はそれなりに長いが攻略作品は5作のみと、範囲は…

アーカイブ

PAGE TOP