相次ぐ天変地異と政情不安と重税感が一般庶民にのしかかった奈良時代、人々の暮らしはどういったものだったのだろうか?
貴族や下級官人の暮らしは古文書に残されているが、一般庶民の暮らしぶりはほとんど残されていない。
平城京での人々の暮らしを衣食住に絞って調べてみた。
貴族、下級官人とは
奈良時代は大宝元年(701)の大宝律令と養老2年(718)の養老律令によって、人々の位階が定められていた。
位階は上は正一位(しょういちい)から、下は少初位下(しょうしょいげ)まで30段階あり、大きく五位以上と六位以下に分けられる。
貴族とは五位以上の人たちのことで「通貴(つうき)」と呼ばれる。そのうち「貴」と呼ばれる三位(さんみ)以上こそが、本物の貴族である。この三位以上の人物を輩出し続けることができる一族が、貴族の家柄といえる。
いっぽう六位以下は実務に当たる下級官人である。六位であっても、貴族の家の生まれなら五位にすんなり昇進できるが、下級官人の生まれが昇進するのは非常に困難だった。
貴族の邸宅
※再建工事中の第1次大極殿 wiki(c)名古屋太郎平城京は、唐の都の長安をモデルにしたといわれる。
大路(おおじ)と呼ばれる広い道路が、東西に10本、南北に9本ある。大路に囲まれた区画を「坊」と呼び、坊の中はさらに小路(こうじ)などで16に区切られている。この区画を「坪」または「町」と呼ぶ。
三位以上もしくは参議以上の貴族のみ、大路に邸宅の門を開くことを許可されていた。
平城京で現在発掘されて明らかになっている最大の貴族の邸宅は長屋王邸で、4町(約6万平方メートル)ある。藤原仲麻呂邸は、その倍の8町あると推定されている。
貴族の家は、白壁に柱の色は朱色、屋根は瓦か檜皮葺と定められていた。室内の床は板張りで絨毯やござなどを敷き、几帳や屏風などで間仕切りをした。
上流貴族になると庭園や池を設け、宴が催された。
下級官人の家
いっぽう、下級官人はだいたい32分の1町や、64分の1町といった狭い宅地を与えられていた。
生活が苦しいので、彼らは宅地を担保にして役所から借金をした。借用書の木簡が数多く出土していて、そのおかげで下級官人の住居の場所は貴族よりも特定されている。
宅地には、主屋と副屋の2棟と井戸があって、ゆったりしているものの建物は小さかった。
建物は地面に穴を掘って柱を立てる掘立て柱方式だった。
壁は板壁、屋根は板葺きか草葺きで、床は土間にムシロや竹を敷いただけ。間仕切りはなかった。
ちなみに、奈良時代の農村の住居はまだ竪穴式住居だった。
平城京のトイレ事情
トイレは藤原京の頃から、水洗式と汲み取り式があったようだ。
水洗式は邸宅の外を流れる側溝から水を引き込み、排泄物ごと水を側溝へ流し出した。
汲み取り式は大きな穴を掘って、渡した板に跨がって用を足し、いっぱいになると側溝や河川に廃棄されたと考えられる。
しかるによって、平城京のなかの衛生環境は非常に悪かったようだ。
古代日本のトイレ事情に関しては、こちらの文献がより詳しい。
貴族の豪勢な食事
食べ物は、全国から税として集まってきた米・野菜・魚介類・調味料などさまざまなものが、国から給与として支給されていた。
貴族はそれらに加えて、自ら経営する農園での収穫物や、東西の市で食べ物を購入して食料としていた。
長屋王は乳牛を飼って「蘇」を製造させ、氷室を所有して夏にかき氷を楽しんだ。貴重だった白米を常食し、邸内で飼っていた犬や鶴にも与えていた。
当時、仏教の教えにより「動物を殺してはならない」とのお触れが何度も出されていた。しかし狩りで捕らえた鹿や猪、運送や農業で使役して高齢や怪我で使えなくなった牛や馬も食べていたようだ。
下級官人の質素な食事
かたや下級官人の主食はアワ・ヒエ・玄米などで当然白米は食べられず、自宅の周りに植えた野菜を添えた一汁一菜だった。あとは粗塩でしのいだと思われる。
国から支給される分量は身分に応じて決まっていたので、下級官人や一般庶民の食べ物の種類や量はごくごくわずかだった。
料理は土間で行なわれ、かまどは現在の「へっついさん」「おくどさん」と呼ばれる土で作ったものではなく、焼き物製の移動できるものだった。この上に煮炊き用の甕や鍋をのせて、煮炊きしていたと考えられる。
奈良時代の役所には給食があった
奈良時代の食事は、朝と夕の1日2食だった。
下級官人の役所の勤務は夜明け前から午前中だが、午後の残業もあった。食事が支給され、「朝夕常食(じょうしょく)」と称された。「間食(かんじき)」といって、昼にも食事が支給されることがあった。この常食と間食は、木簡に請求書を書いて提出し、味についての苦情も記入することがあった。
しかし、どのように朝食が支給されたのか具体的な記録はない。平城宮から同じ形で同じ大きさの土器が大量に出土していることから、一括で大量に調理して、給食として供したと考えられている。
貴族の色鮮やかな衣裳
貴族の服装は、正倉院に実物が収められて、文献資料にも記述されているのでわかっている。
中国に影響を受けたデザインで、男性は上着とズボン、女性は上着とロングスカートが基本と定められていた。服の色や帯飾りなども、位階によって細かく規定されていた。
なお、ネックレスやイヤリングのような宝飾類は出土していないので、貴族であれど身につけなかったようだ。古墳時代には身につけていたのに、仏教伝来した飛鳥時代以降にはなくなった。
仏像は瑠璃や瑪瑙などできらびやかに荘厳して、人間は質素だったのが奈良時代の風俗の特色のようだ。
下級官人や一般庶民の服装は素服
下級官人や一般庶民の服装は、ほとんどわかっていない。衣服はほとんど残らず、貴族のような絵画資料もない。
おそらく無地で無着色の「素服(そふく)」と呼ばれる麻服で、男性は上着とズボンを履いていたと考えられる。女性は頭からかぶるワンピースのようなものか。古墳時代とあまり変わらなかったようだ。
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