室町幕府最期の将軍 足利義昭
足利義昭(あしかがよしあき)は、室町幕府最期の第15代将軍を務めた人物です。
一般には、織田信長の庇護の下、将軍職に就きつつ後に対立して京を追われたことで知られていると思います。
このことから、歴史上ではその後の義昭の存在はあまり注目されていないと思われますが、比較的長生きをしており、晩年には1万石ではありますが大名への復帰も果たしています。
武田信玄の死によって成功には至りませんでしたが、信長包囲網と呼ばれた勢力を糾合するなど外交面での手腕を発揮しました。
将軍家の再興へ
義昭は、天文6年(1537年)に室町幕府の第12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。
義昭は天文11年(1542年)、次男であったことで将軍家のしきたりに倣い、仏門へと入れられ覚慶を名乗ります。
しかし、永禄8年(1565年)に第13代将軍であった兄・義輝が、家臣であった松永久秀らの手により誅殺される事態が発生し、義昭も軟禁下に置かれることになりました。
その後、義輝の家臣らに救出された義昭は、続く永禄9年(1566年)2月に将軍家の再興を図るため還俗し、はからずも家臣らの謀反が元となって将軍の座を目指すことになるのです。
将軍への就任
その後義昭は、永禄11年(1568年)9月に織田信長と浅井長政によって上洛の途に着きました。
途上においては六角義賢の抵抗を受けつつも京に入り、三好三人衆を京より駆逐することに成功、同月30日には三好勢が擁立していた14代将軍の足利義栄も死去しました。
これを受けて同年10月、朝廷からの将軍宣下を受けた義昭は、第15代の将軍へと就任したのです。。
信長包囲網
しかし早くも翌永禄12年(1569年)には、義昭と信長の関係に齟齬が生じていきます。
これは信長の武威をもって将軍の座に就いたものの、北畠氏に対し自らの次男・信雄を強引に養子とするなど、信長が義昭を蔑ろにする政策を推し進めたことが大きな要因と考えられます。
義昭は、元亀2年(1571年)になると上杉氏、毛利氏、本願寺氏、武田氏、六角氏ら有力大名と誼を通じて信長に対抗しようとしました。
この動きを信長包囲網と呼び、かつて自らの敵でもあった松永久秀や三好三人衆をも糾合していきました。
信長への敗北
義昭は元亀3年(1572年)10月に信長から「17条の意見書」において非難されたことで、対立を深めついに信長に対する兵を挙げました。
一方、甲斐からは義昭の要請によって武田信玄が西上を始め、同年12月に三方ヶ原の戦いで徳川に勝利を収めたことで信長を窮地に陥れました。
このため翌翌元亀4年(1573年)には信長の側から、義昭への和議の申し入れがあったものの、義昭をこれを断りました。
しかしその後、頼みとしていた武田勢が信玄の急死を受けて、同年4月には兵を引いたため形勢は逆転します。
これで息を吹き返しは信長は京へと兵を進め、同年7月には槇島城に籠城した義昭を大軍で包囲し、同月18日に義昭を降伏させました。
将軍から大名へ
京を追放された義昭は、天正4年(1576年)に中国の毛利輝元の庇護の下、その支配地であった備後の鞆に移りました。
義昭は追放後も将軍職にあったため、その地名からこれは鞆幕府と称されました。
以後、信長から豊臣秀吉の時代に移り、秀吉が九州平定を終えた天正15年(1587年)10月に義昭は再び京への帰還を果たしました。
翌天正16年(1588年)1月に秀吉に伴われて参内した義昭は、このときに公に将軍職を辞しています。
義昭はその後、秀吉から山城の槇島に1万石を与えられ大名となっています。
更に朝鮮出兵において、名家として軍勢200人を引き連れ参陣し、渡海はしていませんが秀吉の威光を世に示すことに貢献しました。
晩年の義昭は秀吉の御伽衆となり、慶長2年(1597年)8月に享年61で病没、波乱の人生を終えました。
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