中国史

秀吉は薩摩人で明智光秀は二人いた? 明史-日本伝 【中国から見た秀吉と信長】

はじめに

明史-日本伝

豊臣秀吉 画像:wiki c

1590年(天正18年)、長きに渡る戦国乱世を終わらせた天下人豊臣秀吉は、世界の覇者となるべく中華の地を治める大明帝国征服を目指します。

1592年(天正20年)に軍備を整えた秀吉は約16万の軍勢を出撃。文禄・慶長の役と呼ばれるこの出兵は2度に渡って行われ、明・朝鮮連合軍と激しい戦いを繰り広げました。

さて、豊臣軍と戦った中国側は、この出来事と豊臣政権の成り立ちを歴史書「明史」に書き残しているのですが、どうも日本側の記述がおかしなことになっております。特に重要人物である豊臣秀吉と日本の当時の状況についてです。

今見ると「なんじゃこりゃ⁉」とツッコミ所満載な記述なのですが、なかなか興味深いところもあるので、今回はいろいろと考察しながら「明史」に書かれた日本について見ていきたいと思います。

「明史-日本伝」とは?

明史-日本伝

「明史」編纂を命じた康熙帝 画像:wiki c

「明史(みんし)」は明王朝の成立から滅亡までの歴史が書かれた正史(国家が認めた歴史書)であり、全332巻という長編から構成されています。

名前の通り「明史」と言うからには明王朝が編纂したんだろ。っと思うかもしれませんが、この「明史」が編纂されたのは1645年からであり、明王朝を滅ぼした次の中華王朝「清」の時代です。

中国史に詳しい方ならご存知かと思いますが、中国の歴史というのは基本的に「新たに中華の天下を取った国が、その前に存在した国家の歴史を編纂する」という方式になっています。(※有名な「史記」や「三国志」なども次に覇権を取った漢王朝晋王朝によって編纂されています。)

ですので、編纂する王朝によって内容や表現は様々な中国史なのですが、この「明史」は中華二十四史の中ではかなり評価が高く、当時の清の考証学者である趙翼銭大昕(せんたいきん)は「記述は公平であり、よく考えられ大事な点は詳細に述べてあり、いまだこれほどの正史はない」と絶賛しています。

実際、編纂を命じた名君と名高い康熙帝(こうきてい)は「明史」を正確公正な後世に伝えられる内容にすることを厳命しており、明史完成には90年以上の年月を要するほどでした。

そんな評価の高い明史には220もの列伝が備わっているのですが、その中の210番目に位置する列伝というのが「日本伝」なのです。

いろいろとおかしい「日本伝」の日本

ちゃんと編纂してあるのなら日本に関してもそれなりに正確に書かれているのだろう、っと思うかもしれないのですが、これがなんとも摩訶不思議な内容となっております…。

以下の記述が日本伝の序幕の日本語訳になります。

日本にはもと王あり、その下に関白と称する者ありて最も尊し。時に山城州の当主であった信長という者がいて自ら関白と為す。 ある日、信長がたまたま猟にいで、一人の樹下に臥する者に会った。信長がこれを捕らえてなじると、その者は驚起して地面に衝突した。その者が言う に「自分は平の秀吉、薩摩州の人のやっこ(奴隷?)たり」と。彼は質実剛健にして口弁だった。信長は彼を見てよろこび、馬を与えて、「木下人」と名付けたという。のちに彼はよく仕事に勤めた。また、彼は信長のために画策し、二十余州を併合し、ついに摂津の鎮守大将となる。

どこから突っ込んでいいのか分かりませんね…(汗)

「日本にはもと王あり、そのしたに関白と称する者ありて最も尊し。」これに関しては「王」が天皇を指しており、関白が次に偉い身分としているので、特にそこまで違和感はありません。しかし、問題はこれ以降の文です。

「時に山城州の当主であった信長という者がいて自ら関白と為す。」織田信長に関しての記述ですが、「信長が山城の当主」というのはちょっと変ですね。まぁ、信長が都であった京都と近畿一帯を治めていたのは事実ですけど…。

「自ら関白と為す」これは完全におかしいですね。信長は征夷大将軍・太政大臣・関白の位には任官していません。これは「三職推任問題」と言われ、信長が最終的に何を目指していたのか不明のため、今も議論されています。

信長と秀吉の出会いの記述は完全におとぎ話ですね。個人的に若き日の秀吉と蜂須賀小六正勝松下嘉兵衛之綱との出会いの逸話のように感じました。

「自分は平の秀吉、薩摩州の人のやっこたり」も、秀吉は薩摩の出身ではありませんし、平(たいら)氏出身でもありません。何故薩摩の出身で平姓になったのでしょうか?

明史-日本伝

明王贈豊太閤柵封文 画像:wiki c

これに関してなのですが、まず「平秀吉」という呼び方。実は秀吉は「羽柴」姓の後に「平」姓を一時名乗っています。また、主であった織田信長も平氏を称したとされており、秀吉自ら天下人信長の後継者であることを強調するため「平」姓を広く喧伝していたというので、これが明国に伝わっていたと思われます。

実際、文禄の役の講和の際に、明の万歴帝は国書に「平秀吉」と記しているので、これはそう見られていたと間違いないと考えられます。

では「薩摩」とはどこから出てきたのか?という疑問なのですが、はっきりとしたことは分かりません。これは悪魔でも筆者の推測なのですが、豊臣家の滅亡後、「秀吉の子である豊臣秀頼は大坂城の落城と共に自刃した。」という通説がある一方で、「秀頼公は薩摩に逃れて、島津家に匿われていた」という噂が流行していたと言います。

この噂が遠い明国にまで伝わっていたというのは考えられないでしょうか?あるいは本当に秀頼は薩摩で存命しており、島津家と関係のあった大陸側の人間が秀頼を見かけていた可能性もあります。どちらにせよ秀吉が薩摩出身という記述に関しては謎が残ります。

「木下人と名付けた」と「摂津の鎮守大将となる」なんですが、「木下人」は“きのしたびと”でいいんでしょうか…。木の下で臥していたから木下…。シャレですかね(笑)

「木下」の語源がもともとは地名かららしいので、そう捉えるのも一つの見方だと思うのですが、記述のやり取りだけだと、ふざけているかのようにも見えてしまいますね。

「摂津の鎮守大将となる」は摂津の大坂城と播磨の姫路城を混同したと思われます。実際は秀吉は姫路城を拠点として、山陰・山陽方面軍の総大将に任命されています。

何故か二人いる明智光秀

明智光秀 画像:wiki c

続いて本能寺の変と秀吉が明智光秀を倒し、関白に就任するまでの記述です。

信長の参謀に阿奇支(あけち)なるものあり、罪を信長に問われた。信長は秀吉に兵を率いさせ、これを討つよう命じた。にわかにして信長は、その家来の明智に殺された。秀吉、まさに阿奇支を攻め滅ぼす。秀吉は変を聞き、部将の行長らと勝ちに乗じて兵を返してこれを誅す。威名ますます奮う。ついで信長の三子を廃し、関白を僭称し、ことごとくその衆を有す。ときに万歴十四年なり。

「信長の参謀に阿奇支なるもの」、「信長は、その家来の明智に殺された」何故か明智光秀が「阿奇支」と「明智」の二人の人物になっています。「参謀」というポジションもどうかと思います。

ではこの「阿奇支」とは何者なのか?ということなのですが、これは中国地方の治めていた大名「毛利氏」でないかと思われます。

何故、毛利家が「阿奇支」なのか?というと、当時の毛利家の本拠地であった吉田郡山城安芸国にありました。この「安芸の毛利氏」が「安芸氏(あきし)」と明国に伝わり「阿奇支(あけち)」に成り、明智光秀の名字である「明智」と混同されてしまった可能性が高いと考えられます。

記述には「阿奇支を滅ぼして明智を誅した」と記されていますが、実際は、秀吉は「安芸氏」である毛利家と和睦して、「明智」光秀を討ち果たした。のが正解です。中国語と日本語の発音の違いからごっちゃになったのでしょうか?

「武将の行長」と「信長の三子を廃し、関白を僭称」のところですが、この「武将の行長」というのは「小西行長」のことでしょう。彼は文禄慶長の役では明国と交渉を担当するなどして活躍していたので、明国はいろいろと彼のことを知っていたのかも知れません。

「信長の三子」なのですが、これは信長の次男信雄、三男の信孝、嫡孫の秀信のことと思われます。また、「関白を僭称」と記述されてますが、秀吉は正式に朝廷から関白に任命されており、勝手に関白を名乗った訳ではありません。

明国から見れば成り上がり者の秀吉が五摂家の官職であった関白に就任したことは信じられなかったのかも知れません。

太閤とアジア諸国についての記述

さて、遂に天下統一にあと一歩となった秀吉ですが、果たしてどのように明史には記されているのでしょうか?

ここにおいてますます兵をおさめ、六十六州を征服し、また威をもって琉球、ルソン、シャム、仏郎機(ポルトガル)の諸国を脅かし、みな奉貢せしむ。すなわち国王のおるところの山城を改めて太閤を造り、広く城郭を築き、宮殿を建つ。その楼閣九重に至るものありて 、婦女珍宝をそのうちに満たす。その法をもちうるに厳、軍行はすすむ有りて退くこと無し。違う者は子婿といえどもかならず誅す。ゆえをもって、むかうところ敵なし。

「六十六州を征服し、また威をもって琉球、ルソン、シャム、仏郎機(ポルトガル)の諸国を脅かし、みな奉貢せしむ」なのですが、「六十六州」は六十六国のことなので特に問題ありません、秀吉は天下を統一しています。

「琉球、ルソン、シャム、仏郎機(ポルトガル)を脅かし、奉貢させた」とのことですが、これは事実のようです。

秀吉は明・朝鮮に出兵するに当たり東南アジア各地に使者を出しており、服属要求あるいは協力要請を行っています。例として挙げると、秀吉は琉球に援軍を送るよう命じているのですが、琉球は明より冊封を受けているので、物資の支援だけ行っています。

実際に秀吉は文禄の役での日本の快進撃を見て「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」と発言しているので、本気で世界を治めようとしていたことが伺えます。

次に「山城を改めて太閤を造り」とあるのですが、これは大坂城のことかと思いきや、山城とあるので京都の聚楽第伏見城の可能性もあります。「子婿といえどもかならず誅す」に関しては恐らく甥である豊臣秀次の切腹事件であると見られます。

おわりに

今回は明史-日本伝の記述について調べてみましたが、いかがだったでしょうか?

「明史-日本伝は列伝の末端に位置しているので、内容はいい加減でめちゃくちゃである」という声もあり、筆者の私も「信長から秀吉の天下統一の過程はいろいろな情報が混ざった感じの日本観だなぁ」と思ったのは事実です。

ただ個人的に気になったのは、秀吉の出自が薩摩と記述されていたことですね。なぜ中国側は秀吉の出自を薩摩にしたのでしょうか…。明国より「鬼島津」と呼ばれた薩摩人からイメージを受けたのでしょうか?

それと、今回は文禄慶長の役の記述に関しては割愛させて頂いているのですが、日本軍の動向に関してはそれなりに詳細に書かれていますので、「いい加減な内容」という評価も少し早計のような気がします。

また、日本軍は明・朝鮮連合軍から恐れられるほどの強さを誇っていた点も気になりました。明国としては正にかつてのチンギスハーンの再来のような感じだったのでしょうか。

実際、日本軍が撤退した後、中国大陸では「良い子にしてないと日本軍が来るぞ」と恐れられたそうです。

明史⁻日本伝の文禄慶長の役の記述に関して気になる方は、是非調べてみてくださいね。

 

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