中国史

古代中国では女性はどのように扱われてきたのか? 「女帝、料理にされた妻、纏足の悪習」

男女平等

昔の日本は「男尊女卑」のイメージがとても強い。

女性は男性の後ろに下がって歩く」「男性がまず食事に箸をつけてから女性は食事をとってもよい

などの風潮や概念が、一定の世代に浸透していた。

現代の日本においても「男尊女卑」のイメージは消えていないようだ。
男女平等が叫ばれている現代でも、やはり男性は女性に対してある一定の固定概念を持っている。

男性は外で仕事をしているのだから、家事は女性がするもの」と思っている男性は多い。

では、古代中国において、女性はどのような扱いを受けていたのだろうか。時代ごとに紹介しよう。

商朝(殷)の時代

古代中国では女性はどのように扱われてきたのか?

画像 : 紂王と妲己 public domain

商朝(紀元前1700年頃~紀元前1046年)では、やはり男性が重んじられていた社会ではあるが、女性の地位もそれなりに確立されていたようだ。

それを裏付けているのは、いくつかの墓の発掘調査から、たくさんの女性将軍の遺骨が発掘されていることである。

このことから、女性も政治に参加していたということがわかる。

商朝の時代には「一夫一妻制」がすでに導入されていたという。

周朝の時代

この頃、人口が爆発的に増えたことから、「子供を産める」という女性の特権が重んじられなくなっていったという。

そして女性の地位は低いものになっていった。この時代、男性は多くの妻を娶っていたようだ。

春秋・戦国時代

国が乱れ、戦争が絶えなかった春秋戦国時代は、人口がどんどん減っていった。

このことから、女性の生育機能は尊ばれたという。

とはいえ男性と平等とまでは至らず、やはり女性の地位は下がっていった。

秦の時代

秦の時代には打って変わって、ある程度女性を守る法律があったとされている。

古代中国では女性はどのように扱われてきたのか?

画像 : 始皇帝 public domain

始皇帝の母は娼婦であったと言われている。そのせいかどうかは定かでないが、女性にも一定の権利があった。

例えば夫が死亡した場合、女性には再婚の権利が与えられていた。

さらには、男性が女性に暴力をふるった場合と女性が男性に暴力をふるった場合も、同じ刑罰を受けた。

法治国家の元で、平等に刑罰が課されたのである。

漢の時代

漢の時代においても、女性の権利は秦と同様に尊重されていた。

特に漢の初代皇帝・劉邦の妻・呂后は、中国史上で女性として初めて陰で実権を握った人物である。
漢代の女性は協議離婚が可能で、秦と同じく夫が死亡した場合、再婚する事ができた。

呂后の時代は天下は安定しており治世は評価されているが、その一方で権力の独占や残虐性が非難され、呂后の死後には「女性による統治」を危ぶむ声が広がっていった。

そして、この頃から儒学の影響が色濃くなり、徐々に女性への束縛が厳しくなっていった。

三国時代

画像 : 劉備三兄弟 public domain

三国時代には女性の地位はかなり低くなっており、一部ではまるで家畜や奴隷のような扱いだったようである。

「三国志演義」では、それを裏付ける印象的なエピソードがある。

劉備呂布に追われ、劉安という者の家に逃げ込んだが、劉安は貧乏で劉備をもてなすことができず、なんと妻を殺してその肉を食べさせたという。

「三国志演義」は、あくまで小説でありフィクションなので史実ではないが、こういった逸話がまかり通ってしまうほど、当時の女性の地位は低かったということだろう。

武則天の時代

唐朝は「女性の社会的権利が最も尊重された時代」と言われている。

古代中国では女性はどのように扱われてきたのか?

画像 : 武則天 public domain

武則天が治めた時代である。

彼女は、女性でも能力がある者には進んで特権を与え、政府の公の場で活躍できる様にした。

唐朝は外国との外交にも力を入れており、日本とも交流があった。

唐玄宗の娘の一人はその能力を買われ、凄腕の外交官として活躍した。

ところが唐の末期から、またもや女性の権利は地に落ちることになる。

有名なあの「纏足(てんそく)」の悪習が始まったのだ。

纏足とは、幼少期から足に骨格が変わるほどキツく布を巻いて、足を成長させないようにした習慣のことである。

小足であればあるほど女性は美しい」というなんとも不可思議な考え方であった。
纏足の習慣は、唐の末期から清朝の時代に起きた辛亥革命ごろまで続いた。

纏足を施された女性は、激しい痛みから歩くこともままならず、付き添いの者に支えられないと歩くこともできない状態だった。

宋の時代

宋の時代には、女性に対する要求はさらに厳しいものとなった。

儒教の礼儀の規定から、女性は歯を見せて笑ってはならず、素足を人前に晒してはならなかった。女性の貞操についても厳しい規定があった。

婚姻関係の中で女性の不貞は絶対にあってはならず、許されないものとなった。

最後に

意外にも、最も古い商朝の時代はそれほど悪くなく、厳しいイメージがある始皇帝の時代はむしろ「法」によって女性の権利が守られていた。

女帝となった武則天の時代は、官位を得ることも可能だった。

このように中国では、国が変わるごとに女性の権利と地位は目まぐるしく変化していたのである。

参考 : 禁断の中国史、中國古代女性社會地位變遷 | 每日頭條

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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