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大坂夏の陣で武家摂関・豊臣氏が滅亡
慶長20年(1615年)5月8日正午。
京都東山の高台寺屋敷の高台に建つ望楼から、南西の方角を一心に見つめる女性がいた。
太閤・豊臣秀吉の正室・北政所ねねだ。
彼女の目に映るのは、黒煙を上げながら紅蓮の炎に包まれる大坂城。
それは、長らく続いた戦国時代を統一した武家摂関・豊臣氏滅亡の瞬間だった。
ねねとの結婚が秀吉の運命を決めた
北政所ねねは、織田信長の家臣・杉原定利の次女として生まれた。
その誕生年については、天文11年(1542年)・天文17年(1548年)・天文18年(1549年)と諸説ある。
そして、永禄4(1561)年頃、当時、藤吉郎と名乗っていた秀吉と結婚する。この結婚は、当時としては珍しい恋愛結婚といわれる。
ねねと出会った頃の秀吉は足軽に過ぎず、土豪と言えども武士である杉原家の娘との結婚に、ねねの母・朝日殿は猛反対だった。しかし、ねねは、信念を曲げずに藤吉郎と結ばれ、この後、藤吉郎は杉原家の親戚である木下の姓を名乗ることになった。
ねねと秀吉が結ばれた年は、畿内では三好長慶(ながよし)の家臣、三好義興(よしおき)と松永久秀(ひさひで)が入京。
関東では、上杉謙信が北条氏康の居城・小田原城を攻め、信長と熾烈な争いを繰り広げた美濃国主・斎藤義龍(よしたつ)が急死するという波乱含みの時期だった。
ねねと結婚した後、秀吉は信長のもとで出世街道を歩んでいく。もちろん秀吉は、非常な才覚を持った人物だ。ただ、ねねとの結婚が彼の運命を定めたことは間違いないと思われる。
数ある信長麾下の諸将の中で、新参者でありながら明智光秀・滝川一益とともに、出世街道をひた走った秀吉。
彼がことさらに信長に可愛がられたのは、やはりねねの存在があってのことと思わざるを得ないのだ。
信長の心さえつかんだ、ねねの魅力と機智
天正4(1576)年1月、前年に長篠の戦で武田勝頼を破った信長は、家督を嫡子・信忠に譲る。そして、岐阜城を信忠に与え、自らは琵琶湖畔に安土城の築城を開始した。
その安土城に、信長がねねを呼び寄せた時の手紙が残っている。この2年前、秀吉は信長から近江・長浜城を与えられた。城主となった秀吉は側室を置くようになり、そのことで、ねねとの間にいざこざが起きていたようなのだ。
「この度は、はじめて安土を訪れてくれて嬉しく思う。土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できないほどだ。
私からもお返しに何かを贈ろうと思ったが、そなたの土産の素晴らしさに見合うものが思い当たらない。今回はやめにして、次にそなたが訪ねてきたときに贈ろうと思う。」
このように信長は、ねねが持参した土産を殊の外褒め称えている。
当時の信長は天下布武にひた走っていた時期で、彼の元には大名・公家などから多くの贈り物が届いていた。そんな中で、ねねが持参した土産は、信長を虜にするほど機智に富んだいたものに違いない。
さらに信長は、秀吉の女癖の悪さに対し、ねねを気遣う。
「そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十倍、いや二十倍も美しくなっている。藤吉郎が何か不足を申しているとのことだが、言語同断、けしからぬことだ。どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。」
信長の手紙には、ねねに対する親密感が満ち溢れている。
この手紙でわかるように、彼女には人の心を惹きつける天性の魅力と機智があったのかもしれない。
豊臣家の内政と後宮の管理を行う
秀吉が天下人へと上り詰めると、かつての石山本願寺の跡地に大坂城を築いた。そして、豊臣家には多くの人々が属することになる。その中には、羽柴秀勝・結城秀康など、織田家や徳川家をはじめとする諸大名から迎えた多くの養子がいた。
また、農民出身で譜代の家臣がいない秀吉は、加藤清正・福島正則など、親戚の中から才能ある子どもを将来の幹部候補生として養育。さらに、20人近い秀吉の側室やその女房衆、人質の諸大名の妻子など、その管理は大坂城で後宮を纏める、ねねに一任されていた。
こうした人々の中に、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠もいた。秀忠は、ねねに対し生涯にわたり恩義を感じていたようで、豊臣家が衰退をたどる中、彼女の所領を保証し、生涯においてその生活を保護した。
このように、ねねの存在と活動は、譜代の家臣を持たない豊臣家を、内部から支える大きな力となっていたと考えられる。
朝廷と密な交渉を行い大名統制もサポート
ねねは、その才覚を政治分野にも発揮した。
秀吉がはじめて城持ち大名となった長浜時代にこんな実話がある。
ねねは秀吉が中国方面に出陣中、秀吉が出した法令を取消し、新たに自分の名で命令を発しているのだ。
さらに、秀吉が関白になると、朝廷との関係業務はねねが担当することになる。農民階層という低い身分から天下人となった秀吉は、朝廷から与えられた摂関家という権威で政権運営を進めていた。
秀吉にとって朝廷は権威の後ろ盾であった。ねねは積極的に内裏に足を運び、朝廷との難しい交渉をまとめ上げていった。豊臣家が摂関家として天皇や公家から認められ、良好な関係を構築したのは、ねねの働きが大きかったといえる。
豊臣政権は決して盤石な状態ではなかった。全国には機会さえあれば、豊臣家にとって代わろうとする大名たちがいたのだ。ねねはトップレディとして、交流関係を武器に秀吉の大名統制をサポートした。
伊達政宗・佐竹義宣などの大名たちをはじめ、前田利家の妻・お松などと、親密な関係を築いていたことはよく知られている。
また、最大の仏教勢力である本願寺に対しては、宗主顕如の妻と連絡を密にし、対立を未然に防ぐことに気を配った。
最後まで豊臣家存続を諦めずに活動を行う
慶長3(1598)年に秀吉が没した後、ねねは淀殿と協力して秀頼を支えつつ、豊臣政権の後見にあたった。だが、その翌年には大阪城を退去し、京都新城の跡地を中心とした高台院屋敷にその居を遷した。
この動きから、淀殿の対立問題が浮かび上がってくる。秀頼の母として権勢を振るう淀殿と距離をおき、その結果として、衰退をたどる豊臣家を見殺しにしたという説だ。
ねねが、豊臣方だったのか、徳川方だったのか、現代の歴史学では確かな確証はない。
しかし、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは、大津城籠城戦の講和交渉や戦後処理に関与するなど、西軍側と見られる行動を行っている。また、石田三成の三女・辰子を養女に、大谷吉継の母・東殿、島左近の娘・ジョアンナを側近にするなど、彼女を取り巻く人々は西軍側の人物で占められていた。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣が迫ると、ねねは大坂に下向し、淀殿の説得を試みようとしたとされる。だが、ねねの動きは、家康の警戒心を刺激したようだ。
家康は「高台院をして大坂にいたらしむべからず」と厳命を発し、ねねの甥にあたる木下利房に命じ、高台院屋敷近くに布陣させ、彼女の動きを阻止した。
大坂の陣で、なんとしても豊臣家滅亡を目論んでいた家康にとって、ねねが動くことによる影響力は脅威であったと考えられる。
寛永元(1624)9月6日、ねねは、高台院屋敷にて76歳の生涯を閉じた。(77歳・83歳の諸説あり)
夫秀吉と二人三脚で作り上げた豊臣家の滅亡を、その目で確かめたといわれる、ねね。その胸中に去来するものは、どのようなことであったのだろうか。
※参考文献
京あゆみ研究会著 高野晃彰編 『京都歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ 2023年9月
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