華厳滝(けごんのたき)は栃木県日光市に位置する、日本三大名瀑にも数えられる大瀑布だ。そびえたつ岸壁の高さは97mもあり、間近で見ればその迫力に誰もが圧倒される。
新緑がまばゆく輝く明治36年5月22日、勢いよく飛沫を上げる華厳滝に身を投げた1人の若者がいた。
彼の名は藤村操(ふじむらみさお)、享年16歳。
資産家の家に生まれエリート街道を進む、将来を嘱望された優秀な学生だった。彼が華厳滝の傍らの木に書いた遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」は、その内容の特異さから令和の今も語り継がれている。
今回は文豪・夏目漱石の教え子でもあった藤村操について、詳しく解説する。
藤村操の生い立ち
藤村操は明治19年、屯田銀行の頭取を務めた事業家の藤村胖(ゆたか)と、教師である妻、春子の長男として生まれた。祖父は元盛岡藩士で、父は明治維新の後に北海道に渡り、事業家として成功し財を成した人物だ。
さらに操の叔父は福沢諭吉の書生だった経歴を持つ歴史学者だった。また操の弟は三菱地所の社長を務めた人物で、弟の妻は日本の高等教育の第一人者である櫻井房記の娘だ。そして操の妹の夫は夏目漱石に教えを受けた哲学者であり、文部大臣や学習院院長などを務めた安倍能成という、まさに教育界の華麗なる一族といえるような家柄であった。
操自身も優秀な少年で、12歳までは生まれ故郷の北海道で育ったが、開成中学入学を機に単身東京に移住し、その後1年飛び級で京北中学(現在の東洋大学京北中学高等学校)に編入した。
明治32年に父が亡くなった後は、母や弟妹も東京に移住し操と同居を始める。そして明治35年、操は現在の東京大学教養学部や千葉大医学部および薬学部の前身となった第一高等学校(旧制一高)への入学を果たしたのだ。
突然の失踪、そして投身自殺
明治36年5月21日、操は制服制帽の姿のまま忽然と姿を消す。
一晩を日光の旅館で過ごした翌日、彼はミズナラの木に遺書を書き遺し、壮大なる華厳滝にその身を投じた。
彼が世を儚んだその日、操が旅館でしたためた手紙が藤村家に届き、家族は騒然として翌日には叔父の那珂通世一行が日光に急いだが、見つけられたのは操がミズナラに遺した遺書と遺品だけだった。
当時からエリート校として知られた旧制一高の学生の自殺は、世間で大きな反響を呼んだ。
操の遺体は滝に勢いに揉まれたのかすぐには見つからず、その年の7月3日に発見された。
巌頭之感
以下が操が遺した遺書「巌頭之感」の全文とその意訳だ。
原文:
「巌頭之感
悠々たる哉(かな)天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀(しょうく)を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟(つい)に何等の
オーソリチィーを價(あたい)するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。
我この恨(うらみ)を懷いて煩悶、終(つい)に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」意訳:
「岩の上にて思う
なんと悠々と続く遥かなる天地、なんと遥かに流れ続ける時の流れ、
私は約150cmほどの小さな身体でこの大地をはかろうとした。
ホレーショの哲学も学んだが、それに何の権威があるというのか。
この世のすべての真相はただ一言、「不可解」と言う言葉に尽きる。
私はこの恨みを抱いて苦悩し、ついに死を決意するに至った。
既に岩上に立った今、胸中には何の不安もない。
私は初めて知った、大いなる悲観は大いなる楽観と同じであると。」
ホレーショは、シェイクスピア作の悲劇『ハムレット』に登場する主人公の親友・ホレーショを指すといわれる。
ハムレットの原文
「There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy」
の”your philosophy”を「ホレーショの哲学」と捉えた物だと予想されているが、”your philosophy”は「いわゆる哲学」という翻訳が正しいという。
またはホレーショがローマの詩人・ホラティウスを指すという説もある。
操の死が世間に与えた影響
華厳滝が名瀑として知られる一方で、自殺の名所とも呼ばれていることをご存じだろうか。
華厳滝がこの不名誉な通り名で呼ばれることになったのは操がもたらした影響だ。優秀なエリート学生の自殺は当時の社会に衝撃を与え、特に年若き青年たちは操の苦悶に同調し後追い自殺が続出した。
操の死後4年間のうちに華厳滝で自殺を図った人数は185名にも上り、事態を危惧した警察が警戒にあたっていたため未遂に終わったものが多かったが、そのうち40名は残念ながらそのまま命を落としてしまった。
操はまさに『若きウェルテルの悩み』の主人公・ウェルテルのような影響を若者たちに与えたのだ。
『吾輩は猫である』など数々の名作で知られる文豪・夏目漱石は、操が旧制一高在学当時、彼のクラスの英語教諭を担当していた。
操には自殺の2日前に漱石に対して反抗的な物言いをして叱られた経緯があり、操の死は漱石が患った精神衰弱の一因になったといわれる。
漱石にとって操の死は衝撃的だったことは間違いなく、著作には操について言及した記述が数々見られる。
操が自死を決意した理由
操の自殺の理由は、遺書の通り「哲学による悩みを原因とする説」と、「失恋の痛手をきっかけにしたという説」がある。
だが操の友人たちは失恋による自殺説を否定した。夏目漱石は著作『草枕』で操の死について、「余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う」と述べている。
どんなに優れた知性や豊富な知識を持っていたとしても、16歳の少年から青年になる過渡期の男子は、時に同年代の女子よりも繊細で多感で、何か悶々とした感情を内側に抱いているものだ。実父の死や失恋、もしくは哲学的な煩悶、また当時若者たちの中で流行していた悲観的厭世観など、そのうちのどれか1つが理由かもしれないし、様々な要因が相まっての自殺だったのかもしれない。
操は同年代の青年たちが羨むような知性や家柄を持ち合わせていたし、学ぶ環境にも恵まれていたが、哲学を追求するにはまだ純粋過ぎた。生まれてわずか16年でこの世の真相になどたどり着く必要はなかったのだ。
若者たちに対して「青春の浪費」などと言う大人がいるが、青春など浪費して何ぼのものだと個人的には思う。それは若者にこそ許された特権だ。
年を取ればいずれ気付くことになるこの世界の不可解さについてなど考えず、青春を無駄遣いしてでもただ生き抜いてくれさえすればそれで良いと、自分が大人になった今だからこそ考える。
操が大人になっていたら、どんな人物になっていたのだろう。きっと何か大きな功績を残したかもしれないし、特に歴史に名を残さず生きていったのかもしれない。しかしそんな想像は虚しいものだ。彼の短い人生は120年前の5月に、冷たい水の底で確かに終わってしまったのだから。
参考文献
朝倉喬司『自殺の思想』
平岩昭三『検証藤村操 華厳の滝投身自殺事件』
土門公記『藤村操の手紙 華厳の滝に眠る16歳のメッセージ』
逸身喜一郎『ラテン語のはなし』
この記事へのコメントはありません。