1901年のフランスのポワティエ市にて、ある衝撃的な事件がフランス全土を震撼させた。
25年もの間行方不明となり「パリ社交界一」と噂されていた女性が発見されたのである。しかし、その姿はかつての彼女の姿からは想像もつかないものへと変貌していた…。
今回紹介する「ブランシュ・モニエ事件」は、19世紀フランスの身分社会が生み出した悲劇によって引き起こされた事件である。
絶世の美女はなぜ25年もの間、姿を暗ませ変貌してしまったのか?
許されぬ恋のため、監禁されてしまった一人の女性の悲しき「実話」に迫っていきたい。
ブランシュ・モニエの生い立ち
1849年3月。フランスのポワティエ市にてブランシュ・モニエは、父チャールズ・エイミール・モニエと母ルイーズの間に誕生した。
モニエ家は代々ポワティエ市で有名な名家の出身で、先代のモニエ家は美術館を経営するほどの資産家であり、チャールズもポワティエ大学の学部長を務めていた。
いわゆるブルジョワ階級の家庭であったが、ポワティエ市の住民からも評判が良く、何一つ不自由のない理想的な名家であった。
そのような家庭の中で育ったブランシュは20代に差し掛かるころには美しい女性へと成長。いつしか彼女は「パリ社交界一」と噂されるほどの美貌の持ち主となっていた。
許されざる恋
そんな美貌を兼ね備えたブランシュは、パリの社交場であるサロンで多くの男性たちから求婚を求められる。
しかし、当のブランシュ本人はサロンの男たちからの熱心なアプローチに飽き飽きしていた。言い寄って来る男たちの目的のほとんどがモニエ家の家柄と財産、そしてブランシュの美貌が目当てだったからである。
外面だけを重視するサロンの人間たちに、若いブランシュはどうしても興味を抱くことができなかった。
また、サロンに出入りするようになったのも母親であるルイーズの強い勧めがあったからであり、ブランシュとしてはもっと自由に自分の意志で恋愛がしたいというのが本心であったのである。
そんなサロン通いに嫌気が差していたブランシュがパリから地元ポワティエに戻ったある日のこと。彼女は10歳年上のヴィクトル・カルメイルという男性と出会い、彼の気さくな対応に惹かれ始めた。
サロンに通う人間と違い、ありのままの自分を受け入れてくれるヴィクトルに恋愛感情を抱いたブランシュは、彼との結婚を強く望むようになり、またヴィクトルも彼女と一緒になることを願うようになった。
母ルイーズとの衝突
お互いに愛しあう二人であったが、ブランシュの母親であるルイーズは、この恋愛に賛成することが出来なかった。
その理由として、ヴィクトルが弁護士という立派な職についているにも関わらず、名家でもなく、財産もないだだの平凡な一青年であったからである。
当時の19世紀フランスでは、まだ階級社会の風潮が根強く残っており、名家であるモニエ家の娘が名も無い平民男性と結婚することにルイーズはどうしても賛同することが出来なかったのだ。
また、この時既にモニエ家の主であり夫であったチャールズは死去しており、未亡人となっていたルイーズはモニエ家の将来に不安を抱えるようになっていた。
ヴィクトルとの結婚を望むブランシュに対し、ルイーズは何度も彼と別れる様に説得するが、ブランシュは断固として反対。次第に二人の衝突は激しさを増していき、出会っただけで罵りあいが生じるほど関係は悪化してしまう。
さらに、ブランシュはストレスのためか、次第に部屋に引き籠もるようになり、摂食障害を引き起こすようになり始めた。
それでも、ルイーズは執拗に結婚を諦めるように迫ったため、ブランシュは精神に異常をきたし始めてしまう。そして、ブランシェの様子を見たルイーズは、恐ろしい行為に取り掛かり始めるのである。
監禁
「精神に異常をきたし、言うことを聞かない娘には罰が必要だ」と考えたルイーズは、ブランシュを屋根裏部屋の一室に監禁しようと思いつき、息子であるマルセルに計画を持ち掛けた。
当初、ブランシュの兄であるマルセルはルイーズの計画に反対していたが、もともとマルセルも妹の結婚にはあまり乗り気ではなく、彼自身も周りの世間体を気にしていた。
“モニエ家の名誉のため” と割り切ったマルセルは、仕方なく母親の計画に賛同し、ブランシュが眠りについた夜中を見計らって、ブランシュを拘束。嫌がる彼女を天井部屋に連れ込むと、鉄の鎖とベッドにブランシュを括り付け、扉を南京錠で固く閉ざしてしまった。
数日も経てばブランシュは音を上げ、結婚も諦めるだろうと考えていた二人であったが、ブランシュが音を上げることはなかった。それどころか、既に精神に異常をきたしていた彼女は抵抗する気力さえ失っていたのだ。
いつしか月日は経過し、ブランシュの姿が見えないことに周囲の人々は不審に思い始めるようになっていた。
“名家モニエ家が愛娘を監禁” などということが世間に知られたら、それこそ大事になってしまう…。そう考えたルイーズとマルセルは周囲の人間にブランシュのことを尋ねられると、二人は口を揃えてこう答えた。
「娘は失踪してしまった…自ら命を絶ってしまったのかもしれない..」
その言葉を聞き、ポワティエ市とサロンの人々は驚き、深く悲しんだが、一番衝撃を受けたのが将来を誓い合ったヴィクトルだった。
ヴィクトルはブランシュが亡くなったのは自分の責任だと考え、次第に憔悴しきってしまい、遂に1885年にこの世を去ってしまう。
結婚を望んだ相手も亡くなり、もはやブランシュを監禁する理由など一つも無いまま、ただ時間だけが経過していった。母ルイーズのモニエ家の名誉のためだけに…。
事件の発覚
ブランシュが閉じ込められた屋根裏部屋は完全に日の光が遮られており、全てが暗闇に包まれていた部屋であった。また、食事は家族の食べ残しを少量ほど扉の小窓から渡し、たまに彼女の好物であった牡蠣を差し入れする程度であった。
そして、外界との関わりを全て絶たれたまま、いつしか25年の歳月が経ち、誰もがブランシュのことを忘れていたとき、一通の差出人不明の手紙がパリの司法長官あてにに届く。
手紙には以下のように書かれていた。
司法長官閣下殿、 極めて深刻な事態が発生しました。ある高齢の女性がモニエ夫人の家に監禁されています。彼女は半飢餓状態で、過去25年間、腐敗したゴミを食べて生活しています..。
また一言で言えば、彼女は自分の汚物の中で生活している状態です….。
「まさかあのモニエ家が?」司法長官は疑わずにいられなかったが、この手紙の内容を真摯に受け止め、直ちに警官をモニエ家に派遣。モニエ家内部の家宅捜査を開始した。
この突然の警察の来訪にルイーズは戸惑ったものの、すぐに冷静に対応し、警官たちを呆れた様子で眺めていた。その後、警官たちが一通り邸内を捜査し尽くすと、すぐに帰るよう警官たちを促した。
「やはり、あの手紙はただのイタズラか何かだったのか…。」警官たちが揃ってモニエ家を後にしようとしたその時、一人の警官があることに気付き、大きく叫んだ。
「この家には屋根裏部屋があるぞ!」
その言葉を聞くとルイーズは豹変し、警官に掴みかかり暴れ始めた。数人の警官がルイーズを取り押さえ、屋根裏部屋に突入すると、凄まじい異臭とモゾモゾと動く何かを発見する。
警官がおそるおそる近づくと、腐った藁のベッドの上で悪鬼のような一人の女性が毛布からこちらをジッと見つめていた。
そう、この悪鬼のような顔をした女性こそ、かつて「パリ社交界一」と呼ばれた絶世の美女ブランシュ・モニエだったのである…。
その後
ブランシェを発見した時、警官らはこのように語っている。
その不幸な女性は、腐った藁のマットレスの上に全裸で横たわっていた。彼女の周りには、排泄物、肉、野菜、魚、腐ったパンの破片でできた一種の地殻が形成されていた。牡蠣の殻や、彼女のベッドを走り回るゴキブリたちも見た。部屋から放たれる臭いはひどく、空気はとても吸えないほどで、これ以上滞在して調査を続けることは不可能なありさまだった。
1901年5月。こうしてブランシェは25年という長きに渡る監禁生活から遂に解き放たれた。
彼女は既に50歳になっており、かつての美貌は失わていた。それだけではなく、体重は栄養失調のため20キロを切っており、言語を話すことも不可能となっていた。
さらに、長きに渡る不衛生な環境のためコプロフィリア(糞尿愛好癖)という精神異常まで発症しており、もはや人間としては限界に近い状態であった。
事件後、犯人であるルイーズとマルセルは即刻逮捕され、モニエ家の名誉は失墜。また、ショックのためかルイーズは逮捕から2週間後に急死し、残されたマルセルが裁判に出廷し、全てを供述した。
結果として、マルセルは禁固15カ月を言い渡されたが、二度目の裁判にてルイーズに無理やり監禁を強要されたことと、精神障害を理由に無罪となった。
このとき、司法長官に手紙を出したのは実はマルセルだったという説もあるが、真実は分かっていない。
また、救出されたブランシュは精神病院にて手厚い看病を受けたため、肉体的には回復したが、精神の回復は困難であった。
そして、救出されてから12年後の1913年10月にこの世を去った。奇しくも兄マルセルもこの年に亡くなった。
この事件は後の1930年に、作家のアンドレ・ジッドにより主人公の名前以外はほとんど変更されずに小説化された。『La Séquestrée de Poitiers(ポワレの監禁女性)』
参考 :
Blanche Monnier Was Kept Hidden In Her Room For 25 Years
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