人物(作家)

【桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!】 夭折の小説家・梶井基次郎の生涯

梶井基次郎

画像:学生時代の梶井基次郎(梶井基次郎小説全集 上巻より) public domain

桜の木の下には死体が埋まっている

そんな都市伝説を耳にしたことはないだろうか。

実はこの都市伝説は実際に起きた事件ではなく、ある小説にちなんだ話である。その小説とは、31歳の若さでこの世を去った梶井基次郎(かじい もとじろう)の著作、その名も『桜の樹の下には』だ。

梶井基次郎は長年に渡り肺結核との闘病を続け、文壇に認められてから間もなく死去した。しかし小説家としての短い活動期間の中で著した作品は、どれもが珠玉の名品だと多くの文豪から称賛された。

今回は、小説『桜の樹の下には』が書かれた背景や、当時不治の病といわれた肺結核を患いながらも、鮮烈に生き抜いた梶井基次郎の生涯について解説しよう。

『桜の樹の下には』

梶井基次郎

桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!

インパクトのある冒頭文から始まる『櫻の樹の下には』は、基次郎が自身の死の4年前に書いた掌編小説だ。

全2000字にも満たない短い作品で散文詩とも見なされるほどだが、日本人にとって特別な精神性を象徴する花である桜に、新たに退廃美のイメージをもたらした作品として知られている。

基次郎は自身の肺結核の病状が悪化していく中で、その鋭い感性によって爛漫と咲く桜の花の美しさに、生と死の表裏一体や生命の循環を見出したのだ。

その頃に基次郎と知り合いとなった伊藤整は、1956年に発表した『若い詩人の肖像』の中で、

『桜の樹の下には』の構想を基次郎の口から直接聞いた時には心底感嘆し、桜の花が今まで見てきたものよりずっと美しいものに思えた。

と語っている。

しかし伊藤との出会いから約3ヶ月後、基次郎の体調は悪化してしまった。毎日のように血痰を吐き、呼吸もままならず歩けなくなるほどになったため、基次郎は東京の下宿から大阪住吉の実家に戻って『櫻の樹の下には』の執筆を始めた。

執筆開始から約2ヶ月後に発表された作品を期待しながら読んだ伊藤は、基次郎本人の口頭から聞いた話があまりに素晴らしすぎたため、短く整理されていた『桜の樹の下には』に失望したという。

しかし伊藤は失望しつつも、この作品が今までに類を見ないほどに植物の美しさをみなぎらせた作品であると評価した。

梶井基次郎の幼少期

梶井基次郎

画像:頌栄女子学園中学校・高等学校。頌栄尋常小学校は同校の付属校だった wiki c IZUMI SAKAI

夭折の小説家と聞くと儚いイメージを抱くものだが、基次郎は一体どんな人生を送ったのだろうか。

基次郎は大阪で軍需品輸送の職に就いていた父・宗太郎と、幼稚園の保母として働いていたヒサの次男として1901年2月17日に大阪府大阪市で生まれた。

父が働く安田運搬所は日露戦争特需で潤ったため、女好きの父は放蕩し、芸者の愛人との間に子供を作ってくるような家庭環境だったが、基次郎は腹違いの弟妹もかわいがる優しい兄だった。

幼い基次郎たちに、保母だった母は和歌集や文学の読み聞かせなど、熱心な教育を施した。

その後一家は父の転勤に伴い、現在の東京港区高輪2丁目6番地の狭い借家に転居する。電灯もない貧しい暮らしだったが、基次郎は転入した私立頌栄尋常小学校で「大阪っぺ」とからかわれながらも、西欧的な自由主義教育と英語教育に触れる。

それから2年後の5月、再びの父の転勤により、一家は三重県鳥羽市の社宅に転居した。その社宅は広く、鳥羽造船所の営業部長となった宗太郎の収入は増え、梶井家は東京からやってきた重役一家として地域の人から丁重に扱われた。

近隣の子どもたちは皆草履で学校に通う中、革靴を履いていた基次郎は重役の坊ちゃんとして特別扱いされたという。基次郎は鳥羽の海辺の町で、人生で最も健康で充実した日々を過ごした。

しかし、同居していた祖母のスヱが患っていた肺結核が、徐々に基次郎たち兄弟の体を蝕み始めていたのだ。

肺結核の症状が出始めた学生時代

画像:第三高等学校 校門 public domain

その後大阪に戻り、紆余曲折を経つつ名門北野中学校の5年生に進級した基次郎に、結核性の病の症状が現れ始めた。
成績優秀な基次郎であったが学校を欠席する日々が続くようになり、その時に兄から森鴎外を勧められて文学の面白さに目覚める。

中学卒業後は一浪して、中学でできた親友らとともに現京都大学総合人間学部の前身である第三高等学校合格を目指して猛勉強する中で、夏目漱石にも傾倒していった。

その後の第三高等学校での学生生活の中で、多くの文学青年らと出会い、様々な文学や芸術に触れる。相変わらず漱石に惚れ込んでいた基次郎だったので、漱石全集についてはどこに何が書いてあるのかを丸暗記しているほどだった。

これまでに度々発熱し寝込むことがあった基次郎だが、19歳の5月の発熱時についに肋膜炎の診断を受ける。学校を休学して療養に専念するが、その後「肺尖カタル」と診断され、母に学問を諦めるように通告された。

しかし基次郎は両親の説得を振り切って京都に戻り、己の生きる意味を探求するために文学や劇研究会に没頭し、酒を飲んでは放蕩したが、2度目の落第が確定してまた大阪に戻り、謹慎生活を送るようになる。

基次郎は自分に近付きつつある死の気配に気づいていた。しかし、死に面した自分の暗い意識を逆手にとって生きることにより、美なるもの、純粋なるものをつかみ取ろうとしていた。

第三高等学校を何とか卒業した基次郎は、その後無試験で東京帝国大学文学部英文科に入学するが、3歳の異母妹が結核性脳膜炎により危篤となった知らせを受けて、大阪の実家に駆け付ける。

この異母妹の死をきっかけに、基次郎は短編小説を書く決意に至った。

精力的な創作活動

24歳になる年の1月、基次郎は友人の中谷孝雄らとともに同人誌『青空』を創刊し、記念すべき創刊号には後に代表作となる『檸檬』を掲載したが、その時は思うような反響は得られなかった。

自分の命の期限が人よりも短いことを感じていた基次郎は、次々と短編小説を執筆しては『青空』を発行して文壇作家にも献本したが、一部には評価されてもなかなか名声は上がらず、『青空』は第28号をもって廃刊となる。

しかし基次郎が『青空』にかけた努力は無駄ではなかった。元々人から好かれる人物だった基次郎は、転地療養先の伊豆湯ヶ島で『青空』を寄贈していたことをきっかけに、既に『伊豆の踊子』で注目を浴びていた川端康成と知り合い、『伊豆の踊子』の校正にも携わる。

さらに湯ヶ島に咲く桜の美しさや、田舎ならではの風景や生き物たちの生態は、その後の基次郎の作風に大きな影響を与えた。

川端と懇意になった湯ヶ島で、多くの作家と面識を持ち交流した基次郎だったが、帝大から除籍され実家からの送金も無くなり、引き続き創作活動を続けながらも湯ヶ島を去ることになる。

東京の下宿に戻った基次郎は、そこで『桜の樹の下には』の構想に感嘆した伊藤整と出会ったのだ。

小説家として成功する夢の途中で

画像:梶井基次郎(1931年1月撮影) public domain

27歳の年の12月、詩の季刊誌『詩と詩論』に「桜の樹の下には」を発表するも、1月に父が心臓麻痺により急逝する。

実家にはもう金がなく、基次郎はこれまでの自分の贅沢を反省して社会観の勉強に取り組むようになり、「プロレタリア結核研究所」の必要性に思いを巡らした。

結核の病状は悪くなっていく一方だった。喀血して呼吸困難に陥りながらも、基次郎の小説を書く手は止まらなかった。

30歳の1月に発表した『交尾』は、井伏鱒二に「神わざの小説」と称賛され、宇野千代を取り合った恋敵で以前殴り合いの喧嘩をしたこともある尾崎士郎からも好評が届き、基次郎は喜んだ。

画像 : 若き日の宇野千代(1930年代)多才で知られた小説家、随筆家。 public domain

友人の三好達治は、この頃に基次郎を見舞ったが、あまりの基次郎の衰弱ぶりに驚いて「命がある内に基次郎の創作集の出版を実現させよう」と淀野隆三とともに奔走した。

友人たちの努力の甲斐あり、基次郎の創作集が武蔵野書院から出版することが決まる。
インフルエンザで体調を著しく崩し、起き上がることすら困難だった基次郎は、創作集のタイトルや構成などを母の代筆により書き送り、5月15日に基次郎初の創作集『檸檬』が刊行された。

基次郎は自分の元に届いた『檸檬』の本を1日中眺めながら「これから小説家としての人生が始まる」と自分を励ましつつも、結核に蝕まれていく我が身のことを考え絶句した。

『檸檬』刊行にあたって、川端康成が読売新聞の同人批評で基次郎の名を挙げ、伊藤整が『檸檬』を高く評価し、他にも多くの作家や文士が『檸檬』を称賛したため基次郎の知名度は上がり、8月には創作集『檸檬』の印税75円を受け取ることができた。

その後11月の下旬には『中央公論』の正式依頼により『のんきな患者』の執筆に取り掛かり、翌月下旬には人生初となる原稿料を手にする。しかし基次郎はこの頃にはもう、カンフル注射や酸素吸入で生き延びている状態だった。

そして1932年3月24日、10日以上にも及ぶ地獄のような苦しみの後に死を覚悟し、基次郎は家族に囲まれながら永遠の眠りに就いた。

享年31、小説家として成功するという夢半ばでの旅立ちだった。

多くの友に愛された作家・梶井基次郎

画像:松阪城址の梶井基次郎文学碑 書は中谷孝雄 wiki c Yu-ki-na

基次郎は決して聖人君子だったわけではないが、優しくユーモアがあり多くの人から慕われる人物だった。そして作家としても、人より鋭い感覚と揺るがない美意識を持っていた。

文壇に認められたのは約7年間の創作期間のうち、死の直前の1年ほどだったが、基次郎の才能を埋もれさせたくなかった友人たちの尽力により、後世にまで名を残す小説家となったのだ。

肺結核に侵されながらの短い人生ではあったが、その生涯は濃密で、命を燃やし尽くすように情熱的な一生を生き抜いた。

基次郎は『桜の樹の下には』で、「目を背けたくなるような死の対極にある美は、死せる者から養分を吸いあげて咲き誇るのだ」と語った。

基次郎の書いた美しい小説たちもまた、100年の時を超えて色褪せずに輝き続けている。

参考文献 :
梶井基次郎 (著) 『梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』
梶井基次郎 (著) 『桜の樹の下には
伊藤整 (著) 『P+D BOOKS 若い詩人の肖像

 

北森詩乃

北森詩乃

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