戦国時代の築城名人であり転職大名としても名高い藤堂高虎は、歴戦の勇将としても知られている。
彼は各地で主君を変えつつ、築城と戦に参加し続けた。
そして最終的には、近江で農民のような生活をしていた下級武士から、伊勢・伊賀を治める32万石の大名にまで大出世したのだ。
しかし、高虎の「戦働き」は軽視される事が多い。「戦に弱い」とまで言われる事がある。それは主君を何度も変えたことや、築城ばかりが注目されることも原因のひとつだろう。
今回は、軽視されがちな「藤堂高虎の戦いの軌跡」について詳しく探ってみる。
目次
「姉川の戦い」初陣の敵は織田と徳川
高虎は、身長190cm近い大男であったと伝えられている。常に一番槍を心がけており、その体格から敵に恐れられていたことは間違いないだろう。
そんな高虎の初陣は、わずか15歳のときであった。彼の最初の戦場は、浅井長政 vs 織田信長・徳川家康の「姉川の戦い」である。初陣の相手が織田・徳川連合軍とは、まるで最初からラスボスと戦うようなものである。
高虎はこの戦いで、初陣にもかかわらず御首(みしるし)をあげ、大手柄を立てている。戦後、浅井長政から備前長船の脇差と金貨を褒美として授かり、華々しいデビューを飾った。
その後、高虎は「小谷城籠城戦」にも参加した。これも浅井軍と織田軍の戦いであり、高虎はここでも戦功をあげて長政から感状を受け取っている。
しかし、この戦の後、高虎は同僚を斬り殺してしまった罪で浅井家を去ることとなった。
「播磨三木城攻め」猛将を討ち取る
その後、高虎は羽柴秀長の家臣となり、秀吉の戦に付き従うようになった。
そんな中、「播磨三木城攻め」が行われた。
この戦いは羽柴秀吉と別所長治の戦いであり、長治が三木城に籠城したため、戦いは長期間にわたった。
そこで秀吉は兵糧の補給路を断ち、城内の人間を餓死させる作戦に出た。「三木の干殺し」である。
辛抱たまらなくなった三木城の武将たちが討って出た際、高虎は猛将・賀古六右衛門と対峙し、これを討ち取る大手柄を立てた。
この時、六右衛門の乗っていた馬を手に入れ「賀古黒」と名付けている。
「賤ヶ岳の戦い」羽柴兄弟から認められる
本能寺の変を経て、時代が信長から秀吉へと移ると、高虎は秀吉の天下統一戦に従軍した。
その戦の一つ「賤ヶ岳の戦い」(羽柴秀吉 vs 柴田勝家)で鉄砲隊として参戦した高虎は、再び武功を立てた。
その功績により、主君の秀長から300石を与えられた上に、秀吉からも直接1000石を与えられた。
羽柴兄弟の両者からその功績を認められたのである。
「根白坂の戦い」島津軍相手に突撃
高虎は秀吉の九州征伐にも参戦していた。敵は勇猛で知られる島津軍である。
九州の東から南下していた秀長軍は、根白坂で島津軍と激突した。この「根白坂の戦い」(豊臣秀長 vs 島津義久・義弘・家久)では、高虎はヒーローのような活躍を見せた。
島津軍の猛攻で味方の宮部継潤が危機に陥った際、出陣命令を出せない秀長の意図を汲み取り、高虎は自らの小隊を率いて島津軍に突撃したのである。
この勇敢な行動をきっかけに他の隊も次々と参戦し、結果として島津軍を根白坂から撤退させ、宮部継潤を救うことができた。
この戦功により、高虎は1万石を加増されている。
「朝鮮出兵」水軍大将として活躍
朝鮮出兵(日本軍 vs 朝鮮・明軍)において、高虎は水軍を率いて参戦した。
彼が主に参戦した戦いは、「釜山(ぷさん)海戦」「漆川梁(しっせんりょう)海戦」「鳴梁(めいりょう)海戦」である。
高虎は水軍大将としても卓越した働きを見せた。文禄の役では、朝鮮の英雄・李舜臣(りしゅんしん)と釜山海戦で戦い、巧妙な策によって李舜臣を撃退している。
慶長の役の漆川梁海戦では、元均(げんきんと戦い、一夜にして朝鮮の大軍を海の底に沈め、大勝を収めた。
鳴梁海戦では再び李舜臣と戦い苦戦するが、朝鮮軍が撤退したため両者の決着はつかなかった。
「関ヶ原の戦い」頭脳戦に勝利
豊臣秀吉の死去により豊臣家中の派閥争いが激化すると、「関ヶ原の戦い」が勃発した。
これは徳川家康率いる東軍と石田三成中心の西軍の戦いであった。この戦いにおいて、高虎は巧妙な寝返り工作を行った。
高虎は、西軍の武将である四名(脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠)に密書を送り、東軍に寝返らせることに成功した。本戦では大谷吉継と激突し、苦戦する場面もあったが、事前に仕掛けた寝返り工作が功を奏し、東軍を勝利に導いた。
戦後、高虎はその功績を認められ、12万石を加増されている。
「大坂夏の陣」家来を多く失っても戦い続ける
豊臣家と徳川家が激突した「大坂夏の陣」では、高虎は大切なものを失うこととなった。
八尾の地で長宗我部軍と激戦を繰り広げた藤堂軍は、相手を撤退させることには成功したものの、家来70名以上が討ち死にしたのである。
側近の家来だけでなく、高虎の従弟や甥までもが戦死した。高虎は深く嘆き悲しみ、京都南禅寺で七日間にわたり法要を行った。彼は涙を流し、痛ましい喪失を嘆き悲しんだと伝えられている。
おわりに
高虎は、最初の頃は自身の腕一本でのし上がってきた武将だといえる。
しかし、出世するにつれ立場が変わり、指揮官としての役割や内部工作など、戦い方も変えていった。
高虎が「戦に弱い」と言われるのは、おそらく関ヶ原の戦いでの苦戦や、大坂夏の陣で多くの家来を失ったことも原因だろう。
しかし、彼の戦績を振り返ってみると、むしろ勝利し手柄を立てた戦の方が多いことがわかる。大坂夏の陣でも、最終的には徳川家康から褒美をもらっている。
高虎は、決してただでは負けない武勇にも優れた武将だったのである。
参考文献:歴史街道2017年7月号、戦国人物伝 藤堂高虎
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