NHK大河ドラマにより一躍有名になった「真田丸」は、大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた出城(砦)です。
大坂城の南側を守る、要塞としての役割を果たしました。
また、大坂夏の陣においても、幸村が徳川軍を迎え撃った天王寺公園の茶臼山周辺には、今もなお、彼の足跡を感じることができます。
本稿では、大阪の上町台地(うえまちだいち)にあるこれらの史跡を訪れ、真田幸村の足跡を辿ります。
大阪の上町台地とは
「上町台地」とは、大阪市の中央部に位置し、東西および北の三方を低地に囲まれた台地状の地域を指します。
約7000~6000年前、この地は東に河内湾、西に大阪湾が広がる半島でありましたが、淀川や大和川などの河川が運ぶ土砂による堆積により低湿地化し、さらに陸地化が進行しました。
現在では、上町台地は大阪市中央区、天王寺区、阿倍野区、住吉区にわたり、幅2~3km、長さ12kmに及ぶ台地として大阪平野を二分しています。
この台地は、大阪の歴史においても重要な役割を果たしてきました。
真田幸村が大坂城に入場するまで
真田幸村の名が知れ渡っていますが、諱は「信繁(のぶしげ)」です。
直筆の書状や、生前の史料等で「幸村」の名が使われているものは存在しませんが、ここでは知られている「幸村」と記させていただきます。
幸村は1567年もしくは1570年に、信濃国小県郡の国衆であった真田昌幸の次男として生まれました。真田家は当初、武田家に仕えていましたが、武田家が織田・徳川連合軍により滅ぼされた後は、織田家に恭順しました。
信長の死後、昌幸は真田家の存続のために臣従先を上杉・北条・徳川と、その時々の状況に合わせて変えています。
結局、真田家は上杉家に帰属し、現在の上田市内において千貫以上の領地を有するまでに至りました。
そして秀吉が台頭すると、父の昌幸は秀吉に服属し、大名としての地位が与えられます。この時期の幸村についての動向はよくわかっていませんが、秀吉の馬廻衆として父とは別に1万9千石を与えられ、大坂や伏見に屋敷を構え、大名として扱われていたことが分かっています。
こうして秀吉に服従していた昌幸と幸村は、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として戦います。
西軍が敗北すると、本来であれば敗軍の将として処刑されるところでした。
ただでさえ真田家は、第一次、第二次上田合戦において、徳川家に苦渋を味わわせた相手であったため、やっかいな存在だったのです。
しかし、東軍についた幸村の兄・信之と、その義父である本多忠勝の取りなしにより死罪は免れ、高野山での蟄居を命じられるに留まりました。
昌幸は、その蟄居中の1611年に亡くなります。
一方、関ヶ原で敗北した豊臣家は、滅亡を免れたものの、依然として大坂城を中心に存続していました。
しかし1614年、豊臣家の滅亡を画策して発生した方広寺鐘銘事件により、徳川と豊臣の関係は急激に悪化し、大坂冬の陣・夏の陣へと突き進むことになります。
この際、九度山に蟄居していた幸村のもとにも、豊臣家から参戦要請の使者が派遣されました。
幸村はこれに応じ、信州にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけた上で、九度山を脱出し、大坂城に入城したのです。
大坂冬の陣と真田丸
徳川軍は豊臣家を滅ぼすべく、1614年に大軍を大坂に派遣しました。
このとき、幸村は京都・滋賀に打って出ることを主張しましたが、この案は受け入れられず、大坂城に籠城する策が決定されました。
それを受けて、幸村は出城(砦)の真田丸を築きました。
大坂城は、先述した上町台地の北端に位置し、三方を川や湿地といった天然の要害に囲まれていましたが、南側の防御が手薄でした。
幸村はこの真田丸を築くことで、大坂城の守りを万全なものとし、徳川軍の進攻に備えたのです。
さらに幸村は、この真田丸から攻撃を仕掛け、家康が本陣を置いた茶臼山を狙って攻撃を行い、徳川軍を一時的に追い払うことに成功しました。
この真田丸の跡地は、大阪環状線の玉造駅から西へ少し進んだ場所に位置しており、現在でもその地形から往時の様子を感じ取ることができます。
その周辺には、大坂城と繋がっていたとされる抜け穴がある三光神社があります。
その抜け穴跡とされる洞窟の入り口の横には、勇猛に戦いを指揮する幸村の銅像が建てられています。
また、三光神社の向かい側に位置する心願寺には、幸村と父・昌幸の墓があり、往時の面影をわずかに偲ぶことができます。
大坂夏の陣と幸村終焉の地
大坂冬の陣では、豊臣軍が徳川勢を一時的に追い払う形で和平が成立しました。しかし、家康は和平の間に外堀を埋める謀略を実行し、翌1615年には再び大坂城を攻めることとなりました。これが大坂夏の陣です。
大坂夏の陣における幸村は、徳川軍の本陣を何度も急襲し、家康を追い詰めました。
幸村の攻勢は本陣の馬印を引き倒すほどで、家康が自害を覚悟するほどの勢いでした。
家康が馬印を倒されたのは武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来です。
しかし、最終的には徳川軍の援軍により形勢が逆転し、豊臣軍は劣勢となります。
激しい戦いの末、疲れ果てた幸村は、茶臼山からほど近い安居天満宮の境内で、傷ついた身体を木にもたれかけて休めているところを、越前松平家の鉄砲組・西尾宗次に発見されました。
幸村は「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残し、ここで討ち死にしたのです。
現在、この小さな安居天満宮の境内には、幸村の死を悼んで、彼が座っている姿をかたどった銅像が設置されています。
最後に
今回は、大坂冬の陣で真田幸村が拠点を築いた真田丸跡、そして夏の陣で拠点とした茶臼山周辺を巡ってみました。
もちろん、往時の様子を示すものはほとんどありませんが、心願寺にある幸村を慰霊するお墓や、三光神社や安居神社に建てられた幸村像に、その面影をわずかに偲ぶことができました。また、幸村が大坂の人にいかに愛された武将であるかを再認識することもできました。
大阪城を訪れる際には、これらの史跡にもぜひ足を延ばしてみることをお勧めします。
参考 : 「地形からみた上町台地の歴史」他
文 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。