宗教

【英国史】カトリックの姫君が、プロテスタントの王に嫁いでしまった顛末とは

人は時として、絶対に譲れないことがあるものです。

しかし、その個人的な信念が国の命運を左右することがあったとしたら、一体何が起こるのでしょうか。

今回は、一人の王妃の数奇な人生を通じて、その影響を探ってみます。

戴冠されない妃

画像:チャールズ1世の肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク画1636年) public domain

ことの発端は、時のイングランド皇太子チャールズ1世のお妃選びが、不調に終ったことでした。

1623年、チャールズ1世はスペイン王女マリア・アナに求婚するため、寵臣ジョージ・ヴィアリーズ(後にバッキンガム公)と共にスペインに向かいましたが、その道中でパリに立ち寄ります。

そこでチャールズ1世は、フランス王女ヘンリエッタ・マリアと初めて出会います。

結局、スペイン王女との結婚交渉は不調に終わり、代わりにフランス王女ヘンリエッタとの結婚が決定しました。

画像:ヘンリエッタ・マリアの肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク画1636-38年頃) public domain

1625年6月、24歳のチャールズ1世と15歳のヘンリエッタは、イングランドのカンタベリーで正式に結婚します。
そして翌年2月には、即位したチャールズの戴冠式が行われました。

ところがこの戴冠式で、ヘンリエッタは王妃として戴冠されることはありませんでした。

なぜなら彼女は、当時イングランドで禁止されていたカトリック教徒だったからです。(※当時のイングランドではプロテスタントが国教)

とはいえ、ヘンリエッタと、彼女と共にフランスから渡ってきた随行者たちは、特例としてカトリック信仰が認められ、宮廷内にはカトリックの礼拝堂も設置されました。

しかし、この特別待遇が王室と国内の反カトリック派との間に、軋轢を生じさせていくのです。

ヘンリエッタは嫁ぎ先でも信仰を変えず、英語をほとんど話そうとはせず、しかも桁違いの浪費家でした。
そのため、王妃への不満と不人気は相当なものでした。

二人の新婚生活も、当初はぎこちないものでした。

ところが、チャールズ1世の寵臣であり、ヘンリエッタのフランス人側近を警戒していたバッキンガム公が暗殺されたことで、二人の関係は急速に改善します。

最終的に夫妻は9人の子供をもうけることとなり、家族としての絆を深めていったのです。

金策に走る王妃

画像:チャールズ1世とヘンリエッタ・マリア、王太子チャールズ(後の国王チャールズ2世)とヨーク公ジェームズ(後の国王ジェームズ2世)の肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク画1633年) public domain

こうして夫婦の関係は仲睦まじく改善しましたが、チャールズ1世とヘンリエッタを快く思わない議会との関係は、次第に悪化の一途を辿りました。

そしてついに1642年、王党派と議会派に分かれて内乱が勃発します。(※第一次イングランド内戦)

この時、ヘンリエッタは少数の同行者のみを従え、オランダに渡りました。
ハーグに滞在した彼女は、度重なる体調不良に悩まされながらも、王党派を支援するために軍資金の調達に奔走しなければなりませんでした。

しかし、王室に属する宝物を私的に売買するリスクを買い手側が恐れたため、資金集めは難航しました。さらに、援軍を求めたオランダやデンマークとの交渉も、芳しい成果を出すことはできないままでした。

そこで翌年の初めに、ヘンリエッタはイングランドに一時帰国しようと試みます。

最初の航海では暴風雨に見舞われ、船が沈没寸前の危機に陥りましたが、二度目の航海で無事にイングランドへ帰国することができました。

しかし帰国後も、一部の熱心な王党派からの支持を除いて、彼女の不人気ぶりが変わることはありませんでした。

贅沢な王室生活からの転落

ヘンリエッタは、対立する議会派からはもはや憎悪の対象であり、彼女が所有していた豪奢な礼拝堂は反対派によって破壊されてしまいました。

画像:ヘンリエッタ・マリアと矮人ジェフリー・ハドソン卿の肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク画1633年) public domain

戦況も悪化の一途を辿り、1644年には9人目の子供を出産したものの、産後の肥立ちが悪く、彼女は息子たちとお気に入りの矮人・ジェフリーらと共に、故郷フランスへの亡命を余儀なくされたのです。

ヘンリエッタとその一行は、一時的にルーヴル宮に落ち着くことができましたが、ジェフリーが禁止されていた決闘事件を起こしてしまい、宮廷からも追放されてしまいます。

そして、最も恐れていた出来事が訪れます。

1649年、夫であるチャールズ1世が、議会派により処刑されてしまったのです。(※第二次イングランド内戦)

ヘンリエッタは頼みの綱を失い、浪費と贅沢を極めた王妃の身から一転、貧困にあえぐようになります。

王に嫁いだにもかかわらず、安全に身を寄せる城も屋敷も失った彼女が最後に頼ったのは、カラメル会派の修道院でした。
その後、パリに女子修道会を設立し、信仰に生きる日々を過ごすようになります。

しかし、その強固な信仰心から、ともに亡命中だった末息子ヘンリーを「プロテスタントからカトリックに改宗させよう」と強引に試みたため、他の子供たちや味方であったはずの王党派との間にも、次第に軋轢が生じていったのです。

王政復古で大逆転するも

チャールズ1世の処刑後、イングランドは王政を廃止し、共和制へと移行しました。

画像:チャールズ2世の肖像画(フィリップ・ド・シャンパーニュ画1653年頃) public domain

しかし、チャールズ1世とヘンリエッタの息子であるチャールズ2世は、王党派と共に議会派との戦いを続けていました。

その後、内戦を終結させた護国卿オリバー・クロムウェルの統治と彼の死を経て、1660年に王政復古が実現します。

息子のチャールズ2世の即位に伴い、ヘンリエッタは先代王の妃として王太后の地位を得て、イングランドへの帰国を果たすのです。

こうして平穏な日々が戻ったかに見えたヘンリエッタでしたが、今度は息子たちとの関係が悪化し、最終的にはフランスへと永久に帰国することになります。

そして、1669年9月10日、彼女はパリ近郊のコロンブ城で59歳の生涯を閉じました。

彼女の遺骸は、夫チャールズ1世が埋葬されたウインザー城の礼拝堂ではなく、カトリックの守護聖人を祀るサン=ドニ大聖堂に埋葬されました。
サン=ドニ大聖堂は、フランス王族が眠る場所でもあります。

もし、ヘンリエッタ・マリアが嫁ぎ先の意に沿い改宗していたら、おそらく彼女自身の人生も、清教徒革命へと連なるイギリスの内乱と内戦の歴史も違ったものであったでしょう。

彼女のように人生の選択肢が限られていた時代の女性にとって、唯一心の拠り所にできたのは「信仰」だけだったのかもしれません。

参考文献:『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』木村泰司 著
文 / 草の実堂編集部

 

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